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<説教> 主の聖餐を通して 中江洋一牧師(広島教会)

 

主の聖餐を通して
<エレミヤ書16:5~7>
中江洋一牧師(広島教会)

界聖餐日」(World Communion Sunday)とは、異なる文化・経済・政治の状況にあってなお、世界の教会がキリストのからだと血を分かち合うことを通して、主にあって一つであることを自覚し、お互いが抱える課題を担い合う決意を新たにする日です。
この聖餐式は、今では様々な神学的意味づけがされ、教会にとって、また、私たちの信仰にとって、とても重要な教会儀礼となっておりますが、元々はこのパンとぶどう酒を分かち合うという行為が何を意味するものだったので
しょうか? そのことを考える上でヒントを与えるのがエレミヤ書16章5~7節にある御言葉ではないかと思われます。
エレミヤ書16章には、「嘆いたって、悲しんだってもう遅い。」「平和も慈しみも憐れみも取り上げられる。」「誰も生き残らないのだから、誰も葬ったり悲しんだりしてくれる人もいないだろう」という恐ろしい宣告があります。そして、16章7節です。「死者を悼む人を力づけるためにパンを裂く者もなく、死者の父や母を力づけるために杯を与える者もない。」この御言葉の背景には、元々ユダヤ人には死者を悼む人を力づけるためにパンを裂いたり、杯を与えたりといった習慣があったようなのです。
イエスさまがあまりにも理不尽な殺され方をしたために、弟子たちはその死の意味すらも当初は全く理解できませんでした。ただ、弟子たちはイエスさまの死を悼み、また互いに励まし合うためにパン裂きと杯の儀式を行い始めました。それがやがて、イエスさまとの最後の晩餐を想い起こし、過越祭に肉を引き裂かれ血を流す小羊のイメージと重なっていったのではないでしょうか。そして、さらにそれが後になって、イエスさまの死の意味を思い起こすためのキリスト教会の儀式として確立されていったのではないかと思
われます。
弟子たちはイエスさまの死のショックから立ち直るために、とりあえず、自分たちがそれまでもやってきたことのある、パンと杯の食事を始めたのではないでしょうか。それは私たちがお葬式のあとで食べる親族の食事会のようなものかもしれません。その中で、イエスさまの思い出が語られ、イエスさまがどんなに自分たちのことを愛してくださったか、イエスさまがどんなに貧しい人や病を負った人を手厚く世話をし、弱い立場に追い込まれた人を勇気づけ、孤独な人の友となってくれたか。そして、どのようにして個性の強い、あらゆる政治的立場の人も弟子として受け入れて、それらの人々を分け隔てている壁を越えることを教えてくれたか。そのようなことを思い思いに話し始めていったのでしょう。
このように、最初の頃の聖餐式とは、おそらくイエスさまの思い出話を語る、弔いの食事のようなものではなかったかと考えられます。そういう食事会を1回だけで終わらせるのではなく、何度も何度も繰り返し、思い返し、語り直すうちに、イエスさまの言葉や行いが蘇ってくるのです。
当然、イエスさまの死んだ意味についての話をするでしょう。そして、イエスさまの思いが、ここにいる自分たちの間に今も生きている。そうやって「家の教会」での礼拝が始まったのでしょう。イエスさまの十字架の死を記念する聖餐とは、まさにイエスさまのことを分かち合うものであり、イエスさまのことをもっと深く知るためのものでした。イエスさまのように生きるための決心の場でもありました。常にイエスさまのことを想い起こし、「イエスさまだったら、今のこの厳しい現実の前でどうするのか」を考えたのです。
イエスさまは、「神さまから見放されている」と裁かれていた人たちを積極的に招いて、「神の国」を宣言しました。そんなイエスさまの食事には、ただ観念的に罪深い人というだけでなく、社会から排除されているために生活に困窮している人もいたはずです。そのような人にとっては、イエスさまの食事への招きは自分の命をつなぐ道でした。イエスさまの食事を頂いて、肉体的にも霊的にも生かされるわけです。
教会の聖餐を通じて、霊的にも肉体的にも養われ、また世界の人々と食べ物と生きる力を分かち合うことこそ、神さまが喜ばれることではないかと思うのです。

 

 

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