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2018年 復活節説教

 

私たちが得た勝利

Ⅰコリント15:54~58

新居浜グレース教会 安辰男牧師

使徒パウロは第一コリント15:17~19で次の様に言いました。「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」

パウロは復活後の世界があることを強調しました。そして、もし復活がないとすれば、私たちほど哀れな者はいないと断言しているのです。ところでテキスト15:57節では次の様に記録されています。「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」

イエス様が勝利されたと言うことは、死に打ち勝たれたことであり、復活を意味する言葉です。ところで、その復活された主によって、私達も勝利できると言っているのです。これを一言で言うなら、イエス様の復活とは「私たちの復活」であり、イエス様の勝利は「私たちの勝利」だと言う事です。それでは私たちが得た勝利とは具体的にどんな勝利なのでしょうか。

まず最初に、「死の力から勝利した」と言うことです。では、死とは何でしょうか。創世記を見ますと、神様はアダムに言われました。「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

神様はアダムに対して禁断の果実を取って食べてはならない。取って食べたら必ず死ぬと言われたのです。ところで、アダムは禁断の果実を食べましたが、死んだのでしょうか。死にませんでした。では、神様は嘘をつかれたのでしょうか。「死」と言う言葉のヘブライ語の元の意味には「死ぬ」とか「破壊する」「殺す」というのがありますが、もっと深い意味としては「神様と人とを繋ぐ輪が切れて、人生の目標が設定できない状態」の事を言い、それが「死」の意味なのだそうです。それなら納得ですね。確かに、アダムは神様との関係が正常ではなくなりました。彼は死んだのです。ところで、私たちが死の力から勝利したと言うことは、私たちの命はいつか終わる日があるけど、私たちも必ず主と同 じように再び生き返る事を意味するのです。ですから、私たちが死に打ち勝った者であるなら、どんな事があっても挫折してはなりません。なぜなら私たちは「死」から勝利した者たちだからです。しかし、ここでもう一度深く考える必要があります。果たして、私たちが生きる目的が、ただ単に繁栄し、豊かになって、子供たちが順調に成長することだけなのか・・と言うことです。この世の全ての存在の目的は「物」自体にあるのではなく、その「物」を作った人の「ある目的」のために存在するのです。例えば、時計があります。時計は長い針と短い針がグルグル回るために存在するのではなく、私たちに時間を教えるために存在するのです。これと同じように、人間も食べて、寝て、仕事をして子供を育てるのが存 在の目的ではありません。また、お金を稼ぐことだけが人生の目的でもありません。人間を造られた神様を崇めて、神様を信じて神様の御栄光を極めることこそに人生の目的があるのです。

二番目にキリストにあって、私たちが得た勝利とは何でしょうか。それは善を持って悪に勝利されたことです。ゲッセマネの丘でイエス様を捕らえに来た人に向かってペテロは剣を抜いて相手の耳を切り落としました。その時、主は耳を切られた人を癒しながら言われました。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」

これを一言で言うなら、悪をもって悪に返してはならないと言われたのです。誰でも何か良い事があった時は感謝できます。愛する対象を愛することは犬でも猫でもします。良くしてくれる人を愛することは、信仰のない人でもします。私達が勝利する者になると言うことは、イエス様のように悪に対して悪をもって返さず、最後まで善を持って対処する事です。もし、私たちが復活されたキリストの中にあるなら、いっそのこと、負ける方を選ばなければなりません。いっそのこと、バカになる方を選ばなければなりません。相手を憎むことは、すでに自分が敗北していることを意味するのです。もし殴られても笑う事ができるなら、それは勝利を意味しているのです。

私たちが得た勝利とは死の力に打ち勝つ勝利です。そして、キリストの復活は歴史上の事実です。キリストの復活は私たちのための復活です。キリストの復活を信じる私たちも同じように復活するのです。

 

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