AX

変動する在日社会と宣教戦略

 

[hidepost]

変動する在日社会と宣教戦略

はじめに
在日韓国・朝鮮人社会は、すでに在日100年の歴史を迎えようとしている。戦前・戦後を通してその大半は苦節の生活を強いられてきた時代であった。1970年代からの在日の生活権確立と人間の尊厳への取り組みは、在日韓国・朝鮮人をはじめそれまでの外国人に対する閉鎖的な日本社会において、外国人の人権問題がすでに避けて通れない社会的な課題となった。この間徐々にではあるが、法的・制度的及び社会的差別が解消され、在日韓国・朝鮮人の生活の安定にも大きな影響を与えてきた。その延長線上に「多民族・多文化共生社会」という21世紀へのビジョンが明確にされてきた。
また、戦後の在日社会を強く規定してきた本国の南北分断情況が大きく変わり、統一への兆しが見え出したことも、在日韓国・朝鮮人社会に明るい未来を提示するようになり、旧い枠組みから出て新しい枠組みが要求されるようになってきた。
一方、在日社会は今日多様化に直面している。在日社会の構成員の多様化やアイデンティティ‐の多様化である。在日社会の世代交代が進み、一世はごく少数となり、日本生まれの世代に中心が移り、すでに五世も生まれている。国際結婚による多国籍家族、日本籍取得者、また80年代以降来日した新一世及び二世も増加している。後者はそれぞれの世代、地域性や生活環境、民族教育の有無、母語の使用、民族名使用の有無等を背景としての民族的アイデンティティ‐の多様化である。これらの多様化は在日同胞のライフ・スタイルにも関係している。
21世紀における在日社会の目指すビジョンは「多民族・多文化共生社会」の実現である。日本社会が外国人と日本人の「共生」を達成し、新しい時代を迎えるためには、新しい価値観が必要である。外国人の人権と民族的・文化的独自性、そして地域社会の住民としての地位と権利を包括的に保障することが不可欠である。同時に在日社会においてもそれに向けたライフ・スタイルの変化、即ち責任をもって自らの住む地域社会に参画し、その発展を共に切り拓くことが求められている。
Ⅰ 在日韓国・朝鮮人の歴史
現在、韓国籍あるいは朝鮮籍の〈在日韓国・朝鮮人〉は約63万人である。このうちの多くが、日本敗戦以前に植民地支配下の朝鮮から日本に渡ってきた1世とその子ども・孫たちで、その数は約50万人。残り13万人は、第2次世界大戦後の朝鮮半島の南北分断と朝鮮戦争による政治的・経済的混乱のなかで日本に〈難民〉同様に渡航せざるをえなかった人々と、1965年の日韓国交正常化以降、就労・就学・結婚などを目的に日本に渡航し定住した人々、およびその子どもたちである。
このほかに、帰化によって日本国籍を取得した者とその子孫、および父母いずれかが日本籍者で出生によって日本籍あるいは二重国籍となっている〈日本籍韓国・朝鮮人〉が、約34万人と推算される。在日韓国・朝鮮人にしろ、日本籍韓国・朝鮮人にしろ、そのほとんどが日本の植民地支配に起因する存在であるにもかかわらず、戦後の日本は彼らに対して、徹底した〈抑圧・同化〉政策を続けてきた。
Ⅰ―1 朝鮮蔑視と同化主義
豊臣秀吉による朝鮮侵略(1592・1597)の後、日本と朝鮮の外交関係はいち早く修復された。かつて朝鮮は日本と国交を有する唯一の〈通信の国〉であり、鎖国政策下においても一貫して友好関係にあった。その後、明治維新を経て入欧脱亜路線のもとにアジアの盟主たる道を日本が進むにつれ、政治的には征韓論、思想的には福沢諭吉の〈脱亜論〉等に代表されるように、〈朝鮮は古くから日本の属国であり、日本は優越している〉という認識が生まれた。〈日本優位・朝鮮劣位〉イデオロギ‐は、日本の資本主義的近代化を支えた思想・歴史観に由来する。
1876年には日本は武力で朝鮮に不平等条約である江華島条約を締結させ、1905年の乙巳条約で朝鮮の外交権を奪い、10年の韓国併合を経て朝鮮を完全に植民地としたが、それは侵略ではなく両国の同意に基づく〈併合〉であると強弁した。しかし、19世紀末からの朝鮮における反日義兵闘争、1894年東学革命(甲午農民戦争)、1919年三・一独立運動を経た朝鮮民衆の反日・民族独立運動によって日本の朝鮮支配は当初からスム‐ズには進まず、それまでの〈武断統治〉による植民地支配方針は〈文化統治〉へと変化し、一定の転換を迫られた。三・一独立運動の直後、天皇は詔書で朝鮮民衆に対しても〈一視同仁〉政策を施すことをうたい、長谷川朝鮮総督は、〈同化政策〉の定式化を行なった。同化主義は、近代日本に同化しない朝鮮=後進・野蛮・劣等という朝鮮蔑視観(デマゴギ‐)に支えられた政策的総路線であった。その上に成立した植民地政策が、朝鮮語の禁止、政策としての創氏改名(1939~45)等に代表される民族抹殺政策と呼ばれるゆえんである。
Ⅰ―2 戦前
1910年代、朝鮮では統治者である日本の軍隊や警察権力を背景に土地調査事業・林野調査事業を行ない、広大な土地・田畑・山林が日本の国有ないしは地主や資本家の所有となり、朝鮮から中国・ロシア・日本への労働力流出は社会構造的なものとなった。第1次世界大戦で莫大な利潤を得た日本独占資本は、朝鮮の安価な労働力をきわめて効率的に日本国内へ配置した。これが在日朝鮮人形成の根本理由である。
在日朝鮮人の主な職業は土木・建設工事等の日雇人夫、工場の非熟練工、雑役夫、炭鉱夫等であり、常に日本人労働者の産業予備軍的位置にあって失業率が高かった。また、同一労働に対する40~50%低位の差別賃金が常識化する一方、危険で困難な労働現場へ送られ〈タコ部屋〉的労務管理と虐待・虐殺の迫害を受けた。賃金不払・遅配への抗議、待遇改善要求を掲げた労働争議への報復として生命まで奪われた朝鮮人労働者は数知れない。
1923年の関東大震災は朝鮮人虐殺事件のうち最大規模のものであった。内務官僚の画した〈アカと朝鮮人襲来〉のデマゴギ‐に巻き込まれた軍隊・警察、民間の〈自警団〉は、多くの社会主義者と6000余人の朝鮮人を殺した。
戦前の在日朝鮮人にとって住居の確保は、民族差別と差別賃金・失業による生活圧迫のために困難をきわめた。東京・大阪・名古屋・京都・神戸などの大都市では河川沿いや工事現場跡に、また、北海道・九州などでは炭坑地域に〈朝鮮人部落〉が形成され、同時に都市部落やスラム地区への流入・混住も始まった。このような生活状態、労働実態が社会問題とされ、20年代より在日朝鮮人に対する本格的な融和政策が地方レベルで展開された。
それらは〈内鮮融和政策〉と呼ばれ、〈内〉は内地、〈鮮〉は侮蔑的な意味を込めた朝鮮という意味である。38年、内務省の外郭御用団体として中央協和会が結成され〈皇国臣民化〉のための〈協和事業〉が国策として展開された。在日朝鮮人は協和会が主催する国語講習会、神社参拝、軍事訓練等に動員され、日本語と日本名の使用、和服着用、〈皇国臣民ノ誓詞〉唱和等、徹底した日本人化を強制され、社会生活全般にわたって厳しい管理統制の下におかれた。こういった政策の背景には、1910年代末期より起こる在日朝鮮人自身の民族運動、労働運動、社会主義運動の存在があった。戦前、民族独立や人権擁護を訴える朝鮮人を、日本の国家と社会は〈非国民・不逞鮮人〉として徹底して排除・排撃したのである。
Ⅰ―3 戦後
1945年8月15日、日本の敗戦によって、朝鮮は植民地支配から解放された。10月在日本朝鮮人連盟(朝連)が結成され、在日朝鮮人の生活権擁護、帰国準備体制の整備等の闘いを繰り広げた。また46年10月には在日本朝鮮居留民団(民団)が結成された(1948年に大韓民国居留民団と改称)。GHQは在日朝鮮人を在日台湾人とともに解放人民Liberated Peop1esであるとしながら、必要な場合には敵国人Enemy Nationalsとして処遇すると決定し、日本人、非日本人のいずれに判断するかは、政治的情勢によって左右され、法的地位はきわめてあいまいであった。戦後、〈ヤミ市〉経済流通時に〈第三国人〉という差別語が生まれたのはこのためである。
日本政府およびGHQは、朝連に対し徹底した敵視政策をとり、帰国の便宜をはからず、とくにその民族教育に対して弾圧を加え続けた。46年3月頃までに、公式・非公式に130万人余りが朝鮮へ帰国したが、在留する在日朝鮮人には47年5月2日公布された外国人登録令(旧憲法下での最後の勅令207号)を適用した。
一方、〈日本国籍を有している、日本に在留する以上は、法に従うべきだ〉等の論理で、敗戦直後より進められていた独自的な民族教育については認めず、多くの自主学校は閉鎖させられた。49年9月、〈団体等規制令〉によって朝連は解散に追い込まれた。50年6月25日、朝鮮戦争が勃発。この戦争により、祖国への帰還を希望していた在日韓国・朝鮮人は帰国への道を完全に閉ざされたことになった。戦争の終結は、南 北朝鮮の分断を固定化すると同時に、在日韓国・朝鮮人には〈本国〉と〈在日〉との分断をもたらし、さらに祖国分断のイデオロギ‐対立がそのまま在日韓国・朝鮮人社会にも持ち込まれていった。
59年から始まる朝鮮民主主義人民共和国への〈帰国事業〉(1984年までに9万3000人余りが帰国)や、65年に締結された日韓基本条約をめぐって、在日社会はさらに分断されていった。そのなかで〈戦後日本〉は、南北朝鮮の分断の受益者であっただけではなく、在日韓国・朝鮮人社会の分断を利用してその政策を恣意的に推し進めてきた。
Ⅱ 戦後の法的地位
植民地支配下の朝鮮人は強制的に日本籍とされたが、日本政府は1952年、対日講和条約が発効した日をもって、在日韓国・朝鮮人から日本国籍を剥奪した。しかも日本国民と同等の保護を与えることを拒み、指紋押捺制度を含む出外国人登録法(以下、外登法)と出入国管理令(現在の出入国管理及び難民認定法)を適用する一方で、社会保障制度の適用から除外した。〈人間の最低限の生存を確保する〉生活保護法においても、日本国民に準じて〈当分の間〉適用したにすぎず、不服申し立て権を現在でも認めていない。
また52年4月30日に施行された戦傷病者戦没者遺族等援護法は、4月1日にさかのぼって適用されるため、対日講和条約が発効する4月28日まで日本国籍を有していた在日韓国・朝鮮人らは適用対象となる。このため附則2項で〈戸籍法の適用を受けない者については、当分の間、この法律を適用しない〉として、かつて日本人として戦場に駆り出された韓国・朝鮮人を適用から除外した。
1979年、日本は国際人権規約を批准したが、政府は公営住宅の門戸開放以外、上記のような差別的法制度の改正措置をとらなかった。81年の難民条約批准に伴って、政府はやっと国民年金法、児童手当法などの改正を行なった。それ以後、85年の女性差別撤廃条約の批准に伴って国籍法が父系血統主義から父母両系血統主義へと改正されただけで、94年の子どもの権利条約批准、96年の人種差別撤廃条約批准の際にも、政府は国内法の見直しをいっさい行なわなかった。
1991年の〈日韓覚書〉によって入管特例法が施行されたが、そのなかの〈特別永住〉制度は、日本生まれの2世・3世・4世であっても政治的な理由で退去強制ができ、また日本への再入国も拒否できるものとなっており、日本に永住することを〈権利〉として認めたわけではない。また、87年、92年、99年と3度にわたって外登法が改定されたが、在日韓国・朝鮮人など外国人の日常生活をくまなく監視しようとする法目的と、その機能は固持されたままである。1980年代から澎湃として起こった指紋押捺拒否の闘いは、こうした〈抑圧・同化〉政策に対する良心的不服従行動であり、象徴的な〈異議申し立て〉であった。
Ⅲ 差別の現状
法律や制度の規定はないが、民族が違うということを理由に、社会生活のなかで在日韓国・朝鮮人が受ける民族差別がある。民間企業に採用されない就職差別、住宅入居を拒否される入居差別、銀行からの融資やローンによる分割払いに制限を加えられたり、クレジットカードヘの加入を制限されたり特別な保証人を要求されたりする金融差別、民間の奨学金の募集から除外される差別、さらには結婚差別など、さまざまな社会的差別がある。
また、制度的な分野と社会的な分野にまたがって、多数派の日本人とは違った民族であり、民族的ルーツをもつことを対等に認められないという意味での民族差別が挙げられる。これは、日本の教育制度のなかで、在日韓国・朝鮮人の民族的マイノリティ性に即した教育が公式に認められていないという問題や、本名(民族名)の日常生活での使用が困難な状況にあることなどである。1983年に神奈川県が行なった〈神奈川県在住外国人実態調査〉によると、〈借間・借家探しの際差別を受けた経験〉の有無について、回答した在日韓国・朝鮮人866人のうち、〈自分自身が経験した〉と答えた人が177人(20.4%)、〈身近にある〉と答えた人が176人(20.3%)、〈結婚に関連する差別を受けた経験〉については、〈自分自身が経験した〉と答えた人が121人(14.0%)、〈身近にある〉と答えた人が229人(26.4%)、また〈就職差別を受けた経験〉については、回答した766人中〈ある〉と答えた人が296人(38.6%)という結果が報告されている。
Ⅲ―1 就職差別
在日韓国・朝鮮人の就職差別の問題が社会的に論じられるようになったのは、70年に起きた日立製作所就職差別事件からである。この事件は当時愛知県に住んでいた在日韓国人二世青年・朴鐘碩(パクチョンソク)が、同年8月23日、日立製作所戸塚工場の採用試験を名古屋で受験し、9月2日付で正式採用通知書を受け取った。朴は受験の際に、民族差別を懸念し、氏名欄に通称名(日本名)、本籍地欄に出生地を記載した。その後、提出を求められていた戸籍抄本を外国人であるため提出できない旨伝えると、同社は、〈当社は一般外国人は雇わない〉として、解雇を宣言した。朴は同社の対応に対し、不当な民族差別、就職差別であり、解雇処分は無効であるとして、同年12月8日、横浜地方裁判所へ提訴。この裁判と並行して、朴を支援する在日韓国・朝鮮人や日本人が〈朴君を囲む会〉を結成し、日立製作所と直接交渉を行ないながら、運動の輪を広げていった。74年6月19日横浜地裁は、朴の主張を認め、日立製作所の解雇は民族差別によるもので無効であるとした。この裁判とそれを支援する民族差別糾弾闘争は、その後の在日韓国・朝鮮人の民族差別撤廃運動の出発点の一つになるものであった。それ以降、民族団体や市民グループによる民族差別撤廃の運動や、日本社会のなかでの反差別・人権保障を求めるさまざまな運動の発展のなかで、民間企業での個々の就職差別の実態が明らかになり、在日韓国・朝鮮人の門戸が徐々に広げられていった。しかし、他方で就職差別は後を絶たず、差別を認めようとしないケースも生じている。
95年の国勢調査によると、日本人の完全失業率が4.3%に対し、在日韓国・朝鮮人の完全失業率は8.5%にもなっている。また在日韓国・朝鮮人の有職者の職業は、〈技能工・採掘・製造・建設作業者および労務作業者〉がもっとも多く31%、次いで〈販売従事者〉18%、〈サービス職業従事者〉16%となっている。このことは、在日韓国・朝鮮人にとって職業選択の自由が極度に狭まれていることを示している。こうした民間企業における差別的な実態は、〈公的機関における就職差別・任用差別〉によっても助長されている。97年に市民団体が行なった調査では、全国の都道府県市区731地方公共団体のうち、国籍条項を設けて採用をまったく認めていない公共団体が20%、現業職などは認めるが採用枠のもっとも多い一般事務職を開放していない公共団体も56%にも上る。外国人職員数は、確認できるのが772人であり、全職員数のわずか0.05%に過ぎず、この割合は、日本の総人口に占める外国人の構成比1.23%(99年)と比べてもきわめて少ない数値を示している。
在日韓国・朝鮮人や在日外国人の就労問題を考えるためには、個々の企業が起こした採用拒否という事例だけではなく、外国人の就労構造や労働実態そのものについての詳しい実態調査が必要で、いわゆる〈密入国者〉の就労、労働条件の実態の解明などとあわせて、今後の課題となっている。
Ⅲ―2 住宅入居差別
入居差別は戦前の大阪市内での事例が記録に残っているが、戦後になっても後を絶たず、78年5月には、大阪市内で多発する入居差別に対し、市民団体の問題提起に応えるかたちで、大阪府建築振興課は宅建業者4社に対し抜き打ち的な実態調査を行ない、業者が表示していた〈外人不可〉の看板などを撤去させた。また同年8月1日には、大阪府知事名で〈宅地建物取引業の適正な運営について〉という要望書を在日韓国・朝鮮人多住地域の宅建業者に送っている(なお、公営住宅の入居差別は1979年5月に国際人権規約が国内発効するまで続いた)。
しかし、その後も入居差別はなくならず、91年から92年にかけて、大阪府、大阪府宅地建設取引業協会、全日本不動産協会大阪府本部の三者によって行なわれた〈宅地建物取引業者に関する人権問題実態調査〉では、7713の不動産業者のうち、賃貸住宅入居の際、家主から在日外国人入居拒否の申し出が〈ある〉と回答したものが全体の27.4%、〈ない〉が46%、賃貸の〈媒介業務はしていない〉が24.3%、不明が2.4%であった。このうち、〈媒介業務はしていない〉業者を除いた数を全体とすれば、入居拒否の申し出が〈ある〉が36.1%、〈ない〉が60.7%で、4割弱の業者が家主の入居拒否を経験していることになる。また89年1月、大阪市内に住む在日韓国人・裵建一が、仲介業者に内金を支払っていたマンションヘの入居を主から断られた。裵は同年4月、〈在日韓国人であることを理由とした入居拒否は不法行為である〉とし、家主と監督権限・義務をもつ大阪府を被告として、大阪地方裁判所に提訴した。93年6月18日・同裁判所は家主が在日韓国人であることを理由に入居拒否をしたことを認め、拒否に合理的理由はなく、民法上の信義則に反するとして・家主に対して・損害賠償と利息相当分の支払いを命じれこの判決は入居差別に対する初めての司法判断であり、在日韓国・朝鮮人に対する入居拒否が民族差別であることを認めた判決である。しかし同時にこの判決によって、住宅入居差別の存在が改めて明るみに出ることになった。
Ⅳ 日本社会の課題
在日韓国・朝鮮人社会では、すでに2世・3世が大半を占め、今や4世・5世が生まれてきている。しかし日本では、国籍法において血統主義を採用しているため、日本で生まれ育った在日2世・3世・4世であっても、〈日本国籍を有しない者〉として扱われ、本来享有すべき基本的権利を今もって制限され否認されている。主なものを挙げると、次の通りである。
①地方自治体の参政権:法律により否認(直接住民投票権も自治体条例により否認)。②人権擁護委員・教育委員・民生委員の就任権:法律により否認。③地方公務員・公立学校教員の就任権:政府見解により制限。公立の小学・中学・高校の教員採用において、教諭ではなく常勤講師として任用し、カリキュラムなど学校基本方針の企画・立案や入退学・卒業認定の前提となる評価などの職務従事を禁じ、管理職への登用の途も閉ざしている。④日本への再入国権:法律により否認(1980年代、外登法上の指紋押捺を拒否したという理由だけで再入国不許可とされ、その件数は107件に上る)。⑤プライバシー権、品位を傷つける取り扱いを受けない権利、日本国内における移動の自由:法律により否認。外登法では、指紋押捺制度が廃止されたものの、登録証の常時携帯および7年(特別永住者・永住者以外の外国人は5年)ごとの切替制度と、過酷な刑事罰制度などを定める。⑥社会保障の受給権:経過措置が設けられていないため、約5万人の在日高齢者と約3000人の在日障害者が国民年金制度から除外されている。生活保護は日本国民に準じて適用されるが、権利としては否認。⑦戦後補償の受給権:法律により否認(戦争犠牲者援護関連の15法のうち、原爆被爆者関連法以外の13法が国籍要件を定める)。⑧マイノリティ=民族的少数者としての権利:政府は在日韓国・朝鮮人を、自由権規約が27条で定めるマイノリティとして認めず、’民族教育を受ける権利や民族名を名乗る権利についても積極的に認めていない(たとえば大阪市の1996年の調査では、日本の学校に通う韓国・朝鮮人児童’生徒の本名使用率は小学校13.7%、中学校12.5%、高校6.2%となっており、他の地域では使用率はもっと少ないと考えられる)。政府は同様に、日本籍韓国・朝鮮人に対しても、マイノリティとしての地位と権利を認めていない。たとえば帰化申請の際、民族名を放棄して日本的氏名を名乗るようにという行政指導が、1980年代半ばまで公然となされていた。⑨社会的差別から保護・救済を受ける権利:就職、結婚、入居などにおける社会的差別を積極的に是正し〈結果としての実質的な平等〉をはかる措置が何一つとられていない。また1989年、94年、98年と、朝鮮学校にチマ・チョゴリで通う生徒たちへの暴行事件が頻発したが、政府は積極的な防止策を講じなかった。 在日韓国・朝鮮人が当然享有すべき基本的権利のこうした制限と否認は、日本がすでに加入している国際人権規約(自由権規約・社会権規約)や子どもの権利条約、人種差別撤廃条約など国際人権法に明らかに違反する。日本政府第4回報告書を審議した国連の規約人権委員会は98年11月5日、最終見解の中で〈国内法制を規約に完全に合致させるため、法律を見直し、適切な改正を行なうことを勧告する〉と明記した。
70年代からの民族差別撤廃闘争の集大成として、民族差別と闘う連絡協議会は88年、〈在日旧植民地出身者に関する戦後補償および人権保障法(草案)〉を提案。また指紋拒否・外登法改正運動のなかから、外登法問題と取り組む全国キリスト教連絡協議会が98年、〈外国人住民基本法(案)〉を提起した。
多国籍化・多民族化が急速に進行している今日、〈在日〉の歴史と現在を直視した抜本的な法改正と、〈地域社会を構成する外国籍住民〉としての国際人権法に基づく包括的な法制度の確立が求められている。
Ⅴ 在日社会の形成とアイデンティティ‐
現在ほぼ63万人いる在日韓国・朝鮮人のル‐ツをたどれば、日本による植民地支配(1910.8~45.8)の産物である。朝鮮は1910年8月22日に日本に併合され、その植民地となった。1909年の在日朝鮮人人口790人は、そのほとんどが留学生で、卒業と同時に帰国する、一過的性格のものであった。植民地労働力として朝鮮人が本格的に日本労働市場に流入するのは、第1次世界大戦(1914~18)の時期である。戦時景気によって労働力が払底し、’朝鮮で盛んに募集が行なわれた。その渡日者との縁故と募集によって在日朝鮮人の人口は急増し、30年にはほぼ30万人、38年にはほぼ80万人に達した。この時期の日本への渡航者は、主として農村における地主・小作制度による農民の貧困が原因であった。39年以降の人口の急増が目立つ。日中戦争の泥沼化と戦線の拡大による兵力動員のため、日本国内の戦時産業の労働力不足が深刻になり、強制連行が開始されたからである。さらに太平洋地域への戦線の拡大が、それに拍車をかけた。在日朝鮮人人口は44年にほぼ200万人、45年5月には210万人(推定)に達した。これには軍人・軍属36万人は含まれていない。
Ⅴ―1 戦後の帰国と残留
日本の敗戦によって朝鮮は解放された。戦後の混乱のなかでその正確な数字は把握されていないが、文字通りなだれを打って帰国した。GHQの指令により、計画輸送のために、46年3月18日に厚生省が実施した登録によれば、登録総数64万6943人のうち、51万4035人が帰国希望者になっている。45年5月時点での推定数が210万人だから、戦後6ヵ月問に140万人余りが帰国したことになる。在日韓国・朝鮮人の98%余りが南の出身である。
解放後の南北分断による政治・経済的混乱(南ではアメリカ軍政)、それにつづく朝鮮戦争(1950~53)のため帰国の足が止まったばかりでなく、一部の帰国者が日本に逆流してくる現象が起こった。警察当局がいう〈密航〉がそれである。朝鮮戦争中の52年4月にサンフランシスコ講和条約が発効する直前、法務府民事局長の一方的な通達によって在日韓国・朝鮮人は日本国籍を剥奪され、本人も知らない間に外国人になった。この〈国籍条項〉を利用した韓国・朝鮮人差別が、今も続く。戦後韓国への帰国者のほかに、59年12月から始まった北朝鮮への帰国事業で、84年までに9万3000人余りが帰国、また〈帰化〉による日本国籍者が20万人余りと推定されている。
Ⅴ―2 在日韓国・朝鮮人の現在
戦後50年余りたつと、在日韓国・朝鮮人の内容も大きく変化した。そのなかのもっとも大きな変化が、〈朝鮮生まれ〉から〈日本生まれ〉の世代交替である。戦後初期は〈朝鮮生まれ〉の第1世が中心であったのが、しだいに、〈日本生まれ〉の世代に移り、今は95%前後と推定される。つまり〈日本生まれ〉の世代は、国籍上は外国人であるが、本国に生活基盤がなく、また本国への帰属意識も薄い。すでに彼らは法的にも〈永住権〉をもつ、〈在日〉そのものをアイデンティティとする定住外国人である。
50年には在日外国人の90%以上が韓国・朝鮮人であり、バブル景気が始まる前の85年でさえ、その比率は80%以上であった。つまり現象的には在日外国人イコール韓国・朝鮮人といってもよかったのである。ところが、1980年代後半のバブル景気とともに3K(キタナイ、キツイ、キケン)労働分野および、農村や零細企業の青年の結婚難のため、〈アジアの花嫁〉が急増した。とくに中国人、日系ブラジル人、フィリピン人の急増ぶりが目立つ。いうところの〈外国人労働者問題〉の浮上である。
在日韓国・朝鮮人の場合は、その人口数がほぼ64万人前後の横ばい状態であったが、91年の69万3050人をピークに減少傾向にあり、在日外国人総数の急増に伴って、98年には半数以下の42.2%に減少している。このような傾向は、今後さらに強まると考えられる。というのは戦前に渡航してきた第1世およびその子孫の〈旧植民地出身者〉の場合、毎年の〈帰化〉による日本国籍者数が自然増加数を上回っているばかりでなく、韓国・朝鮮人と日本人との国際結婚件数も、75年を境に同族同士のそれを上回り、すでに80%台になっている。その子どもたちが日本国籍を選択することは、ほぼ間違いないからである。
〈日本生まれ〉の世代の韓国・朝鮮人は、外国人ではあるが〈永住権〉をもった外国人として、地域住民として、子々孫々まで暮らしていくほかないし、納税の義務も果たしている。にもかかわらず〈国籍条項〉をはじめとするさまざまな社会的差別がある。世界はしだいにボーダーレスの時代へ進んでいる。21世紀に向けて定住外国人としての韓国・朝鮮人の〈国籍の壁〉をどのように考え、対処していくべきかが、大きな課題である。
Ⅵ 民族教育
民族教育は本来、民族同胞の手によって民族固有の言語を用いることを基本としながら、民族の歴史や文化を継承することをめざして進められる教育である。在日韓国・朝鮮人の民族教育は、日本の植民地支配政策および戦後の在日韓国・朝鮮人政策によって変遷した。現在、民族教育機関として在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)系と、在日本大韓民国民団(民団)系がある。朝鮮総聯系は、朝鮮大学校(東京)を頂点に全国に高級学校(高校)12校、中級学校(中学校)52校、初級学校(小学校)70校、民団系は東京・大阪・京都に小・中・高併設(京都は中・高)の4校。それぞれ、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国の在外公民、国民としての教育を進めている。近年、戦後半世紀にわたる在日の現実、永住権取得等定住化の現実を踏まえた教育にも力を注いでいる。
1945年8月15日の日本の敗戦(朝鮮の解放)によって、在日朝鮮人の民族教育推進の気運は急速に高まった。〈韓国併合〉以降、民族教育を弾圧され、同化政策によって皇国臣民化を強いられてきた朝鮮民族は、解放後、民族教育の回復に努めた。戦後、引き続いて日本にとどまることになった在日朝鮮人は、最初の民族運動として民族学校創建に取り組んだ。46年には525の初級学校(児童数4万2182人)、4つの中学校(生徒数1180人)、12の青年学校(生徒数714人)の体系的な民族学校制度が発足し、朝鮮語の教科書を使った教育が始められた。その後、祖国の分断状況を反映して、民族運動を担っていた朝鮮人連盟から分離し独自の活動をすすめた居留民団は、傘下の民族学校を創設。小学校52校(児童数6297人)、中学校2校(生徒数242人)、訓練所2校(289人)が創設された(1948.4当時)。
民族学校創建の運動はその後、東西冷戦の激化、朝鮮戦争などの国際情勢によって影響を受けることになった。GHQおよび日本政府は〈朝鮮人学校は反米、反日の思想・政治教育を行なっており、学校教育法に違反している〉との理由で1948・49年の2度にわたって朝鮮人学校閉鎖命令を強行した(阪神教育事件)。これに抗議する朝鮮人民衆は大阪府庁、神戸県庁をとり巻いて闘った。日本政府は〈団体等規正令〉を適用し、朝鮮人連盟に解散命令を出し、民族教育を弾圧した。これを機に多くの朝鮮人児童・生徒が日本の学校に就学する状況につながった。
朝鮮総聯の結成(1955)後、民族学校再建の運動が進められた。日本政府は民族学校の教育内容、運営を文部省の管理下に置くことをめざした外国人学校法案を数次にわたって国会に上程したが、根強い反対運動が展開され、成立せず廃案になった。日韓基本条約(日韓条約)成立(1965)後、民族学校は各種学校としても認可されず、在日韓国・朝鮮人児童・生徒の日本の学校への就学はいっそう増大した。現在、在日韓国・朝鮮人の民族学校就学率は約13%。日本の学校への就学率が約87%を占める現実は、このような歴史的背景と経緯によってもたらされたのである。民族教育をとりまく状況のなかで、日本の教職員組合をはじめとする運動は、外国人学校法案反対、民族学校権益擁護の低抗闘争への連帯の闘いが中心であった。
1960年代に高揚した部落解放教育の実践から目の前の被抑圧の側の子どもたちの課題に目を向けた兵庫や大阪の教師たちの間から、在日韓国・朝鮮人の人権保障をめざす教育実践が進められた。兵庫の湊川高校、尼崎工高、大阪高槻六中、大阪長橋小の実践は、日本の学校に学ぶ在日韓国・朝鮮人の子どもたちの人権に焦点をおいた取り組みとして先導的な役割を果たした。日本の学校における民族学級・民族クラブ、地域での民族子ども会の実践は全国的に広がっていった。83年には部落解放運動と連帯する日本人教師たちによって全国在日朝鮮人教育研究協議会(全朝教)が結成され、在日韓国・朝鮮人の民族教育権の保障、民族差別の根絶、進路保障をめざす取り組みが進められている。また、民族主体の運動として市民的・民族的諸権利の保障を求める各民族団体などの活動が進み、教職員組合、全朝教などと連帯し、民族教育、民族共生教育に関する地方教育行政の教育基本方針(指針)の策定や、進路保障に影響を与えている。
70年代以降、民族学校の権益擁護を求める日・朝の住民運動、国際人権規約の批准(1979)、子どもの権利条約の批准(1994)などの情勢の変化があり、民族学校を地域にもつ地方自治体は、都道府県から市区町村まで民族学校になんらかの教育補助金を支給するようになり、いわゆる〈1条校〉(学校教育法1条)でないことを理由として認めていなかった各種スポ‐ツの全国大会の門戸開放なども進んでいる。また、一部の公立大学しか認めていない民族学校卒業生の国・公立大学、専修学校への受験資格の問題も、国・公立大学教員を中心として門戸開放を求める運動が展開されている。民族学校では、在日韓国・朝鮮人の日本定住化に対応し、教育内容・カリキュラムの改革を進め、教科書の改訂を行なった。また民族学校の授業公開、日本の学校との交流なども進めている。
Ⅶ 民族文化活動
戦前から戦後そして現在に至るまで、在日韓国・朝鮮人の文化活動は、日本文化の主流に対してつねに傍流・下位(サブカルチャ‐)に位置づけられてきた。それゆえに、優れた学者、芸術家、大衆芸能人、スポーツ選手などが出自を隠して〈日本人として〉活躍している例が少なくない。戦後の力道山が朝鮮人であったことは、そういった文化状況を如実に物語る例であろう。このような事情の背景には、同化政策の結果としてもたらされた民族的アイデンティティ‐の喪失という状況があり、それは今に至っても解決されていない歴史的課題である。ゆえに、自覚的な文化運動は、個人・集団・階層、またプロ・アマという次元を超えて、その回復過程と新たな創造的視点を射程に入れざるを得ない。
一方、民族文化についての概念・内容・規定が時代とともに変化を余儀なくされるばかりか、伝統文化の形式一つをとってみても、北と南では大きな差異が存在する。北では〈社会主義リアリズム〉の名のもとに伝統文化の人為的改造がなされたし、南においては植民地時代から無批判的に継承された〈観光文化〉的変節が残存している。在日韓国・朝鮮人の文化活動にとってはこういった事情も大きな困難として立ち現れ、いきおい〈独自性〉が意識され求められる。つまり、日本国内での民族差別と闘うと同時に、自らの民族的自覚・覚醒を促す文化の創出とその具体的方途・表現方法がさまざまなかたちで模索されてきたのである。
1982年〈ひとつになって育てよう、民族の文化を・こころを/生野民族文化祭〉を嚆矢として、各地域の独自性のなかで〈民族文化祭〉〈マダン〉(広場)等というかたちで繰り広げられている文化的営為、あるいは公教育・学校教育の教育実践と結びついたさまざまな文化活動が新たな民族性(エスニック・アイデンティティ)創出の場を提供し、同時にまた、共生と国際化を具現する豊かな可能性や展望を生み出している。今後、〈北か南か〉〈祖国か在日か〉〈民族統一か反差別か〉といった二項対立的パラダイムが過去のものとなり、より積極的でダイナミックな文化的実験が行なわれることが期待される。
おわりに:宣教の課題と戦略
以上のような認識に基づいて在日韓国・朝鮮人社会を規定してきた日本社会や本国との関わりの中で、短期的な課題を中心に最近くらしづくり部会ができた。くらしづくり部会のメンバーは8名(うち女性2名)―学界2名、民団関係者2名、司法界2名、地域活動関係者2名― であった。2年間で計10回にわたる会合で議論を深めた。取り組みの可能なものより出来るだけ早く具体化されることを望む次第である。
特にくらしづくり部会では、在日韓国・朝鮮人の生活の現場を大切にしたため、会合の場所は仙台、東京、川崎、名古屋、京都、大阪(和泉、生野)で開催され、各地の民団の現状及び地域活動等の取り組みを研修し、すでに共生社会の先取りとしての活動を体験できたことは幸いであった。尚、具体的な提言にいたらなかった“残された課題”(結婚、住まい、NGO・NPOとのネットワーク作り、海外同胞とのネットワーク作り、ニューカマーの暮らし等)もある。
ここで我々も、在日韓国・朝鮮人の歴史や現況を確実に捉えて、宣教戦略の可能性を共に見出して行きたい。それには今までの情報や経験を生かしながらその具体的な戦略を話し合って行くことが望ましいので、まず日本にある在日同胞と深い関わりを持つ在日大韓基督教会を見ることによって宣教戦略を見出すことができるのではないかと思われる。そこで、まずその歴史について簡単な概略を見ることにする。
Ⅰ 在日大韓基督教会の過去・現在
在日大韓基督教会は、日本の植民地支配が始まる直前の1908年より来日していた金貞植・東京朝鮮YMCA総務及び留学生の聖書研究会や祈祷会が出発点となった。YMCAとは別に教会を設立することで意見が一致し、朝鮮長老会へ牧師派遣を要請した。これが在日宣教の始まりである。翌年10月、朝鮮イエス教長老会の韓錫晋牧師が来日し、教会組織を整えた。
1910年の韓国併合後、日本の資本主義は、低賃金と劣悪な労働条件を強制できる植民地労働力として、朝鮮人の日本本土への移住を要求し、関西地方を中心に全国に居住するようになった。これにともなって、朝鮮人への伝道も留学生から労働者へ、東京から全国へとその対象や領城が拡がった。国を奪われ、農地を無くし、生活の糧を求めて日本に来ざるをえなかった朝鮮人労働者は、ここでも蔑視され、差別の中での生活を余儀なくされた。教会は心の安らぎをおぼえ、故郷の消息や民族の痛みを分かち合う信仰共同体であり、祖国の解放を願う祈りと、朝鮮語や日本語を習得するための学びの場でもあった。
このような状況により在日朝鮮人の人口は、1930年30万人、1940年120万人へと急増した。これに伴い在日朝鮮人の居住区も東京地域から関西地域・九州・中部・北海道へと徐々に広がった。伝道をより積極的に行うため、1927年からカナダ長老教会(L. L. Young宣教師等)が在日朝鮮人宣教に加わった。そして、1934年2月、「在日本朝鮮基督教大会」創立総会が開催された。この時より、信条・憲法を制定して組織教会となり、牧師・長老の按手が執行されるようになり、独立した教団を形成するようにまでなった。
しかし、1939年、宗教団体法が成立するに及んで、「在日」朝鮮基督教会は存続の危機をむかえた。1940年1月、大阪にて臨時大会を開催し、日本基督教会から示された条件による「合同」を決議した。これにより在日本朝鮮基督教会は一教派としての解体を余儀なくされた。さらに1941年6月の日本基督教団成立時には、第一部に編入された。日本が太平洋戦争へと突入していく中で「在日」朝鮮人教会は、官憲の監視と弾圧、創氏改名や日本語の使用などを強要された。また、治安維持法違反容疑などによる教会指導者の連行・拘束が始まった。
これより1945年の解放を迎える時まで「在日」朝鮮基督教会という名称はなくなり、日本が太平洋戦争へと突入していく中で、在日朝鮮教会に対する弾圧は厳しさを増し、説教や公式記録は日本語使用を強制され、多くの信仰の先達が犠牲と苦難の道を歩んだ。1945年8月15日は、神によって与えられた解放の日として記念するようになった。
在日大韓基督教会は、日本において民族解放を迎え、多くの同胞が帰国する中で、日本に留まった数名の牧師と300余名の信徒によって再建された。太平洋戦争中、多くの教会が弾圧のなかで閉鎖に追いやられ消失したが、1945年11月15日、残された教会と指導者たちが創立総会を開き、強制的に編入された日本基督教団からの脱会を決議し、「在日朝鮮基督教会連合会」を成立させ、1948年に「在日大韓基督教会総会」と名称変更を行ない、伝道に勤しんだ。
1968年、宣教60周年を迎え、標語「キリストに従ってこの世へ」を掲げた。宣教60周年記念事業の一環として、1971年、在日韓国人が最も多く在住する大阪生野区に、在日韓国基督教会館(KCC)を、1974年に在日韓国人問題研究所(RAIK)を設立した。また1983年には西南KCCが設立された。
1974年と1994年の2度にわたって「マイノリティ問題と宣教戦略国際会議」を主催し、共生社会の実現を目指す使命を持って、新しい宣教活動を展開してきた。また、1990年より8回にわたって朝鮮基督教連盟代表を招待し、「祖国の平和統一宣教に関する会議」を共催して来た。
エキュメニカル関係は、日本キリスト教協議会を初め、世界改革教会連盟(WARC)、世界教会協議会(WCC)、アジア基督教協議会(CCA)、日北米宣教協力会(JNAC)へ加盟し、1977年以降韓国7教団、日本基督教団、豪州連合教会(UCA)、日本キリスト教会などと宣教協約を締結した。
解放の時より50年以上を迎えるに当たり、過去を謙虚に振り返り、その歩みの中でわれわれと共におられた主に感謝し、今日における宣教的使命についての基本姿勢を示し、決意を新たにするものである。1999年10月の定期総会で、名称を「在日大韓基督教会」と改称し、憲法改正・総会規則を採択し機構改革を行った。現在、100の教会・伝道所を統括している。
Ⅱ 在日大韓基督教会の宣教戦略
2008年に在日大韓基督教会は宣教100周年を迎える。私たちはこのような時期に自らの方向性をもう一度確かめながらその宣教活動を行うべきだと考えている。過去の歴史を振り返る必要性と4年後の100周年記念行事を執り行うことを考えながら、多元的な宣教戦略について共に取り組んで行きたい次第である。
1)地球規模化する時代にあって、宣教の神学を再構築し、また新しい宣教戦略を展開する必要性。
2)移住労働者や難民などの少数者、また在日韓国・朝鮮人や先住民などの長い歴史性を持ったマイノリティに対する理解。
3)南北経済格差が暴力やテロを生み出す温床になっているとの指摘があるが、国家間の経済格差の増大化に対してなすべき宣教戦略。
4)日本で生まれた在日コリアン、日本人とコリアンの両親から生まれたいわゆる「ダブル」、留学生やニュ-カマ-など、多様な背景による在日の包括的アイデンティティを確立する必要性。
5)教会の青年や学生たちが自らのアイデンティティに確信を持ち、自然環境の保全や周辺化された人々に対する社会的正義などの世界的課題に参与するようになるために、彼らの自覚と意識を喚起する必要性。
6)世界中に散らばった韓国・朝鮮人をはじめとする民族的少数者のネットワ-ク構築と平和統一への参与。
7)教会との宣教協力関係を持っている団体に関する歴史的資料の研究と保存。
8)社会福祉への参与。身体が不自由な方や高齢者の介護のための働き及び高齢の信徒への奉仕に対する認識と訓練。
9)教会における子供、青年、女性の役割を強化するプログラムの必要性。国際的な協力団体とより効果的な交流を深めるためにコミュニケ-ションの力を補強するリーダーシップ・トレ-ニングとエキュメニカル運動への貢献。

在日大韓基督教会の現況と宣教戦略.word

[/hidepost]

 

Related Posts

  • No Related Posts