<第10回 WCC釜山総会報告> 6
このことからも分かるように、WCCとは、似通った信仰や神学的傾向、倫理的指向をもった教会のみが集まった協議会では決してない。教派的にはローマ・カトリック(正加盟教団ではないが、さまざまな形で参加)や正教会からペンテコスタルまで、倫理的には伝統的な家父長制家族主義を重んじる教団から、LGBTの人権の積極的尊重を重んじる教団まで、多種多様なあらゆるタイプのキリスト教会が集う協議会である。
私たち日本のクリスチャンたちにとってはすでに共通の命題となっている「脱原発」であっても、他の地域、違う経済状況・政治状況にある信仰者たちにとっては、それは受け入れられないことなのである。また本会議では、声明文の中の性的少数者に対する言及に関して、保守的な教団と進歩的な教団の間で対立的な言葉のやりとりが行われる場面が見られた。このように、相容れない様々な要素を互いに持ちつつも、相手を全否定することなく、話し合いの席に着く。
そして神の義と平和をこの地に成していく「神の道具」としてお互いを認識し、互いに協力し合うことの出来る共通項を探し、それを形にしていく。お互いが忍耐し、受け入れ合いながら、世界教会協議会という一つの「主の体」を成すことを目指す。そのような困難なプロセスが、現在進行形で進んでいた場所が、あの釜山の総会であったように思う。
本当に残念だったのは、そのようなWCC総会の意義と挑戦を理解しようとしない韓国の一部の極保守系教会による反対運動が、会場の周辺で散発的に行われていた事である。「WCC kills church」「WCC運動は神を裏切るものであり、神を激怒させるものだ」「反キリストWCC」といった攻撃的な文句の並んだピケットやプラカードを掲げた人たちがうろうろしている。WCC参加団体のようなふりをして、会場の敷地内でWCCの糾弾パンフレットを配っている人たちがいる。街宣車が大音量で神の審判を放送しながら走り回っている。会場の前で「WCCを潰してください」と大声で叫びながら通声祈祷する人がいる。挙げ句の果てには、閉会礼拝の舞台上に叫びながら乱入した人までいたということである。
彼らの主張は突き詰めると非常に単純で「WCCは宗教多元主義を支持する」「WCCは同性愛を認める」「だからWCCは反キリストの異端組織である」という論法である。しかし実際はWCCとは世界のありとあらゆる教派による協議体であり、その中にはいろいろな神学的立場を持つ人たちがいる。宗教多元主義やLGBT理解について一定の結論がすでに出ているわけではない。
これらの問題の理解や、対立の克服のために、話し合いのテーブルに着く態度がそこにあるのみである。しかしWCC反対運動を展開する人々は、この会場で今何が起こっているのかは見ようとも聞こうともせずに、ただ自分たちの単純な原理をがなり立てる。自分たちの理解できないものは見ず聞かず、ただ否定しようとする「バカの壁」(養老孟司の用語/人間の理解の限界)がそこにある。おそらく彼らにとって、神の前に正しい信仰者とは自分たちだけなのだろう…。
そのような絶望的な乖離状況を目の当たりにしながら、神と人、人と人との和解のために自らを十字架に捧げられた主の恵みと奇跡が、無理解と敵対心が主の民を分裂させているこの悲惨な状況の上に、豊かに臨むこと祈らずにはいられなかった。(了)
(報告:許伯基牧師 つくば東京教会/総会事務局幹事)