(マルコによる福音書16:1〜8) 金性済牧師( 副総会長、名古屋教会)
主イエスの復活について記すすべての福音書に共通するこ とは、マリアたちが、安息日の終わった週の初めの日の早朝に、つまり、十字架で死なれて三日目の朝、葬られた主の体 に香料を塗るために墓に行ったところ、墓の中はすでに空になっていたということです。聖書のどこを開いても、見てい る目の前で死んでいた主がよみがえり、起き上がった、という記事はありません。私たちは、主の復活の時間について考えてみましょう。
安息日の終わりとは、私たちが今日日曜日と呼ぶ日の朝 ではなく、土曜日の日没です。しかし、その時間は、マリアたちは焦る気持ちで主の墓に行きたくても、夜の闇に遮られて、墓には行けなかったのです。彼女たちは安息日が終わっ ても、夜が明けるまで、ほぼ十二時間、待たなければならな かったのです。そして、十二時間後に、彼女たちが墓に行っ てみると、もうそこには主はおられなかった、すなわち、すでによみがえっておられたことになります。
では、復活された主にとって、その十二時間とはどんな時間だったのでしょう。十字架にかかられる前に、主はすでに弟子たちに、ご自分が十字架にかかり、死なれて、三日目によみがえることを予告されました。その一日目とは、十字 架にかかられた金曜日、つまり安息日の前日だったのです。 その日、午後三時ごろ、十字架の上で息を引き取られたのち、 すでに弟子たちは逃げ去ってしまっていた中で、アリマタヤのヨセフたちが遺体引き取りの、おそらく危険で困難な手続きを済ませて、石の洞穴の墓に埋葬しました。時刻はすでにとっぷりと夜のとばりが下りていたために、彼女たちは、働くことを禁じられる安息日の始まる前には主の体に香料を塗る機会を逃していたはずです。そして、二日目とは金曜日の日没から土曜日の日没までの安息日を指し、三日目とは土曜 日の日没に始まっていましたが、彼女たちはそれから十二時 間遅れで夜明けを待ち、墓にたどり着いたのです。一体、主はいつ復活されたのでしょうか。それについては誰も答えら れないのです。
確かなこととは、マリアたちが夜の闇に遮られて、自分たちの願うとおりに動くことができなかったとしても、主ご自身はすでに闇の中で死に勝利して、復活されたという真実 です。私たちの人生においても、彼女たちのように、前に進みたくても先が見えず、どの道を選べばよいか見えないという、自分の力では振り払うことができない闇のような出来事 が私たちの行く手を遮ることが起こります。主イエス・キリストの復活とは何か。
それは、たとえ私たちがまだ自分の行く手を遮る闇のような問題に悩まされているときでさえ、主はもうすでに私たちの行く手を遮る闇に勝利しておられるということです。聖 書は、イースターにこの真実を喜びの知らせとして私たちに告げるのです。
マリアたちはもう一つ、心に重くのしかかる悩みを抱えていたようです。三節にある通り、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるだろうか」、つまり、自分たちの力では到底石を動かせないことを、彼女たちは知っていました。 しかし、彼女たちは常識的にそのことを分かっていても、墓に向かっていくことを断念しなかったのです。
聖書が私たちに告げるイースターの第二の喜びの知らせとは、人には動かせなくとも、全知全能の神にはおできになる、という真実です。主が死に勝利され復活された。それは、 私たちは無知で無力であっても、神は必ず、私たちの弱さの中で強くあられ、私たちの弱さと足らなさを助けてくださるという恵みの力の真実です。(第二コリント十二・九)
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このイースターの喜びの知らせを福音として告げ知らさ れる人とはだれでしょうか。それは、あのマリアたちのように、大きな悲しみに遭遇しても、自分の行く手を何度も闇の ような出来事に遮られても、また自分の力では到底動かせない重く大きな問題を抱えて悩んでいても、それでも主を愛し、 主のもとに向かっていくことをやめず、主に仕えるために働 くことを放棄しない人に、主の復活は必ず喜びの知らせとして告げられるのです。
マリアたちは驚きおののいて、その場を逃げ去ったと聖書に記されていますが、復活の主は彼女たちを先回りし待たれ、彼女たちを、恐れの中で部屋に閉じこもる弟子たちに主 の復活を告げる使命の道に遣わされるのです。
私たち、一人ひとりの人生も、今日の在日大韓基督教会も、 様々な闇に行く手を遮られ、大きな墓石のように重い問題がのしかかり、悩まされています。しかし、私たちも、あのマリアたちのように、それでも主を愛し、主に仕えるために道を進み続けましょう。主はすでに死に勝利し、闇の中で復活の光を放たれておられるのです。復活の主が、必ず、私たちを恵みの力で助け、私たちの方向を、喜びを分かち合う道へ と変えてくださることを信じましょう。