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「復活の恵み」(マタイによる福音書28:1~10)

게재일 : [15-03-16]   조회수 : 4123

「復活の恵み」(マタイによる福音書28:1~10)
金必順牧師(関西地方会会長、堺教会)

復活の目撃者
 
マタイの証言によれば、主イエスの復活の目撃者には二通りのグループがありました。一つは、祭司たちから派遣されて墓の番をしていた番兵たち、もう一つは最後の最後まで主の十字架の死を見届け、墓に納められるまで従った女性たちです。

女性たちの中でも、四つの福音書のすべてにその名が記されているマグダラのマリアは、女性の弟子たちのまとめ役を担っていたと考えられます。女性たちは、墓で天使から主の復活を告げられました。天使は、「ガリラヤで主に会う」ようにと、弟子たちへの伝言を女性たちに託しました。弟子たちに報告するため、急いで走っている途中、復活の主が直接彼女たちの前に現れ、女性たちは主の前に「ひれ伏した」のです。「ひれ伏す」とは礼拝するということです。復活の主を最初に礼拝したのは女性の弟子たちでした。

毎週ごとに私たちは、この復活の主にひれ伏して礼拝を行っています。復活の主を礼拝するのではなく、牧師に会うため、また、友人と話すために教会に来るというのであれば、それは礼拝の本質から離れています。教会の中心である礼拝は、復活の主との出会いなくしては成立しません。

復活の主イエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言されました。この宣言によって、私たちは復活の出来事から2000年を経た今日まで、またこれからも、主が再び来られる時まで、主が共におられることを確信して礼拝をささげ、この世を生きて行くのです。

一方、大祭司から派遣された番兵たちは、祭司長に事の成り行きをすべて報告しました。祭司長たちは長老を集めて相談し、「イエスの弟子たちが夜中にやって来て、自分たちが寝ている間に死体を盗んで行った」と嘘の証言をさせることにしました。このような経緯から、ユダヤ教では今もイエスの復活を認めない立場を貫いています。これに対し、弟子たちは復活の主を礼拝し続け、このことによって、キリスト教はユダヤ教から独立したのです。

 
復活の主と出会って
 
十字架刑の判決が出て、弟子たちは皆逃げてしまいました。ペトロでさえ、三度も主を否定しました。このような弱い弟子たちですが、復活の主と出会ってからは、迫害の恐れがあるエルサレムにわざわざ行って、神殿で大っぴらに「イエスは神の子メシアである」と宣べ伝え始めたのです。捕えられても、投獄されても、鞭打たれても、やがて殉教の死を遂げることになっても、もう二度とイエスの弟子であることを否定しない人間に生まれ変わったのです。この180度の転換の中心にあったのは、復活の主との出会いでした。

卑怯にも主イエスを見捨て、見殺しにした弟子たちですが、その裏切りと罪にもかかわらず、主のほうから「会いましょう」と言ってくださったのです。このように弱く、罪深い者のために十字架にかかってまで愛し、なお信頼してくださるイエスに出会ったことで、弟子たちは主の愛に応えずにはおられない存在に変えられたのでした。

主イエスの復活が示すことは、神の愛は、罪と死よりも強力であるという偉大な事実です。神の愛は、私たちの人生をつくりかえます。荒れ野のように荒れ果てた私たちの心に、花を咲かせる力です。


復活の恵み
 
この愛のゆえに、神の子は人となり、へりくだり、自分を捧げつくす道を歩まれました。そしてついには、罪の支配する陰府に降りました。憐れみ深い神の愛は、イエスの死んだ体に光を注ぎ、それを変容させ、永遠の命へと過ぎ越させたのです。ただし、イエスは元の地上の命へと生き返ったのではありません。神の栄光の命に入られ、私たちにも希望の未来を開かれたのです。主の復活によって、私たちも新しい存在として造りかえられました。

復活の恵みは、人間を最後まで前向きに生かし、与えられた命を完全燃焼させる力をもたらします。その理由について、宗教改革者マルチン・ルターはこう言い残しています。「クリスチャンは、キリストのいらっしゃる所にこそいるべきです。もしも、キリストが墓におられないのであれば、クリスチャンもそこにいるべきではありません。」

この意味は、復活の主と出会った私たちは、滅びとしての死、裁きとしての死、罪の敗北としての死、そうした死の暗さや恐れ、脅迫の中に閉じ込められてはいけないということです。暗闇を超えて、復活に表された勝利と神の愛を信じて、たとえ0.1%の可能性であっても、なお前向きに生きる。それが、キリスト者の生き方であるとの勧めです。

イースターには、色づけしたきれいな卵が配られます。どうして「たまご」なんでしょう?それは、ヒヨコが生まれるとき、卵の殻を破って出てくるからです。私たちの希望を阻み、私たちを暗闇に閉じ込める固い殻を破って、新しく生まれ出る命。そんな命の希望を卵は象徴しています。

私たちも、神の憐れみによって、もう一度新しくしていただきましょう。イエスの愛の力によって、人生をつくり変えていただくのです。そして、神の憐れみの器、平和の道具として、正義と平和の花を咲かせるお手伝いができるすばらしい恵みを、もう一度のこの復活祭に確認して歩む者でありたいと願います。


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