オリニ主日説教
幼子のような者
<申命記4:9、マタイ11:25>
金明均牧師(福岡中央教会)
毎週いくつかの説教を準備し、それを宣布する。牧会者にとってそれは、神様から与えられた確かな恵みであり、祝福であると同時に、その重圧感の中で過ごすのも確かなことであります。天から毎週説教が聞こえてくることもなく、毎週特別に感動した証しができることも少なく、知識も経験もないと思いつつも、みことばを取りつがせていただいています。
経験がないと言えば、私には子どもがいません。子ども主日のメッセージを頼まれた時、出産の苦しみを味わうこととなりました。子育ての幸せと苦労による自身の成長はできなかったのですが、子育てをする方々のご家庭を通して、間接的に学ばせていただくことがありました。そこから、子育ての大変さを感じさせられました。そして聖書の子どもや子孫の箇所を読む時は、神様の子とされた私たちや、教会や世界の子どもたちを考えながら読んでいます。
1.「ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい。」(申命記4:9)
「あなた自身に十分気をつけ」「生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい」と書かれてありますが、これは、自身が正しく信仰することと欲に誘惑されることに気をつけ、未来のキリスト者のために福音を宣布せよ、との神様の命令だと受け取りました。信仰生活を続けていると、目に見えるものや置かれた環境などによって、初めの救いの感動が薄れることがあります。イスラエルの民がエジプトから出て、多くの恵みや、神様に従わなかった者たちがどうなったかを体験し、本当の神様を知ったけれども、これから続く生涯で、自身に十分に気をつけなければならないこと、子や孫に伝えていくことを、念を押しておっしゃっているのです。イスラエルの民が経験したことを伝えていくことは、過去の話ではなく、現代の私たちを導かれているのも、主であります。日々、初心に戻り、生涯離れないようにして、子どもたちに、実直に諦めずに伝えていくことの大切さを感じるのであります。
2.「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ11:25)
子どもから学ぶことがたくさんあります。ここで語られている幼子のような者とは、単純に欲がなくて、心が純粋なことを言うのではなく、小さいものになることを言っているのではないでしょうか。福音書の他の箇所でも、イエス様は重ねて、幼子のような者が天のみくにを見ることができ、信じて受け入れる者が天国に入ることができるとおっしゃいました。私たちはがんこで自己中心的な考えが多くあり、高ぶっている者には救いの真理や本当の神様が見えない。むしろ私たちは、神様の前で、自分を無にし、欲をおろした時に、自分の傲慢さや誤った信仰に気づかされるのです。
自分の経験や考えや願いで神様のみこころを取捨選択したり、欲をかなえてほしいだけの祈りや、みことばに従わない言い訳を考えず自分は聖書の知識を知っているとか、奉仕や献金をどれだけしたかといったことで信仰があるかのように思っている。そうではなく、信仰の足りなさ、弱さを感じて、日々主を求め、人を比較して裁いたり優越感をもったりせず、低く、小さくなっている者であることです。
私たちが知った神様の救いの恵みを、まず自分自身が確信し、それを子どもたちに良き模範として示し、私たちに与えられた神様のみことばを伝えていくことが、今、私たちに与えられた主の命令であり、使命なのです。