<青年主日説教>
「二つの祈り」(マルコ1:33−38、マタイ6:9−13)
金迅野牧師(横須賀教会)
公生活を始められた後の、イエスの一日とはどのようなスケジュールになっていたのか。詳しいことはわかりませんが、ガリラヤ湖のほとりで漁師たちを弟子にして以降、会堂で教え、痛みを負った人々を癒やすとても忙しい日々が続いていたことが推察されます。日中の活動の後も、「夕方になって日が沈むと」病いや痛みを負った者をつれて、「町中の人が、戸口に集まった」(33節)といいます。古代の時間の流れ方は、いまのそれと異なるかもしれませんが、ただ多忙なだけでなく、イエスの日常が、人間の痛みとかかわる、深く濃い時間に充ち満ちていたことを、福音書の記述の一端から推し量ることができるような気がします。
35節にはそんな日常を過ごしていたイエスが「朝早くまだ暗いうち」に起きて、「人里離れた所」に行って祈る姿が記録されています。祈るイエスの姿は福音書に何度か出てきますが、日常と結びついた祈りとして、この箇所はとても印象に残ります。宣教の仕事をしながら人々と過ごす多忙な日常の連続。その時間の流れから離れて、そして人々の交わりから離れて、一人で祈ることの意味はどこにあるでしょうか。
中高生や青年たちと話しをしていると、彼/彼女らが、「希望」という言葉を使いづらい日常の中を生きていることがわかります。人とどう接して良いかがわからない焦り。いろいろな問題があるけれど、いやありすぎて、どれにかかわっていいのかわからない。自分の悩みや悲しみ、苦しみがほかの人にわかるはずがないと思えてしまう。なにもつかめないままこれから先どうなっていくのかという底知れない不安に包まれている・・・。なんでもないよという顔をして、さらっと語るその語りの奥底に、誰も聞いてくれることのない、深い痛みの感覚が横たわっているのを感じます。
私たちの日常生活は、いろいろな意味で、さまざまな音に囲まれています。「音」は、耳に聞こえる「音」だけではなく、心を乱すある種の騒々しさを含みます。誰もがそのような騒々しさの中で「静けさ」をうしないます。そのような騒々しさの中では、誰かが、自分の悩みや苦しみや痛みをゆっくりと聞いてくれるとはなかなか思えません。そして、自分自身もその喧噪にまみれて、悩みの根っこにあるものを深く見つめることができない。ひょっとしたら青年イエスにも「誰にもいえない」苦しさや痛みがあったのかもしれません。だとしたら、イエスの一人の祈りは、「誰も聞いてくれない」と思える事柄を聴いてくださる方がいらっしゃること、そのことを確認する時間があること、そしてそれがどのように訪れるのかということを私たちに教えてくれているように思います。一人で、神さまとつながる時間の貴さ。そこにこそ日々を生きていく勇気の源が横たわっていることが、イエスの祈る姿勢によって静かに示されています。
ところで、「主の祈り」通して、イエスは、一人で祈るのとは別の祈りがあることを教えています。ご存じのとおり、「主の祈り」は、「われら」が祈りの主体になっています。この祈りを通してイエスは、自分のために祈る祈りは、祈りを完結させない、複数の人間が祈りを重ねることこそが大事だと教えています。自分の祈りの課題をそれぞれが持ち寄ること。親しく交わる者同士が互いに他者のために祈ること。いつの日か親しく交わることになることを夢見ながら、まだ見ぬ誰かをも「われら」に含め、その人たちのためにも祈ること。主の祈りの「われら」という言葉には、自分だけでなく、誰かのためにも祈ることの大切さが刻まれています。
誰かのために祈ることができるのは、誰かの悩みや痛みを聴き知ったときです。そして、その悩みや痛みが、自分のそれと触れたとき、人間は「わたしはひとりぼっちではない」と感じることができるのではないでしょうか。ですから、誰かの声を聴くことができて、はじめて、人はその人のために祈ることができます。そのように聴き、祈り合う場が、青年たちの交わりの中にいくつも生まれてきたことを、わたしは傍らから何度も目撃してきました。
「一人の祈り」でイエスが確認したのは、誰よりも聴いてくださる方の存在でした。そして人々の痛みを聴く日常に戻り、癒やしの業を示しました。わたしたちも、まず、静かに祈ることを通して、根源的に「わたしはひとりぼっちではない」ということを確認しましょう。そして、互いに「聴く」ことの場を通して、ともに祈る共同体を豊かにしていきたいと思います。青年たちの活動の場が、そのような祈りの連なりとして豊かさを増すことができますように。