全てが有益に変わる「従順」
<ルカによる福音書5:12~16>
韓世一牧師(神戸教会)
私たちは教会で「従順」という言葉をよく耳にします。
私たちが主の御前に捧げる全ての礼拝も「どうすれば私た
ちの心と体で神様に対してもっと従順になれるか」を共に
考える時間ではないかと思います。
そこで、本日の御言葉を通して、「従順」はいつまでしな
ければならないのかを共に考えてみたいと思います。皆様
はいつまでだと思いますか?
まず結論から言いますと、「従順」は神様が喜ばれる基準
までするものであります。「従順」は私達たちの側から決め
られるものではありません。私たちの思いで「ここまです
れば十分である」と考えるのは本当の「従順」とは言えま
せん。聖書が語る「従順」は、神様の基準に私たちがより
近づいて従うことです。
本日の聖書箇所では全身重い皮膚病によって苦しんでい
る人が登場します。ところが、ここではその時代にはあり
得ない光景が書き記されています。それは全身に重い皮膚
病に患っている人が町に入っていることです。当時のユダ
ヤ社会ではこのような病気の人は町に入ることが出来ませ
んでした。その病気が癒されるまで、彼らは社会から隔離
される状況だったのです。もし町に入ろうとすれば、人々
が自分に近づかないように大声で自分の病気を知らせなけ
ればなりませんでした。なぜならば、その病気を罹った人
が触った物を健康な人が触ると、その健康な人も汚れると
教えられていたからです。それで、この事実を人々に知ら
せずに町に入ったならば、重い皮膚病の人は町の人々に石
打をされる場合もありました。
このような厳しい状況の中で、この病気を罹った人はイ
エス様に近づき、自分の病気を癒して下さることを願って
いるのです。この重い皮膚病の人は、12節で「主よ、御心
ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言
いました。この言葉から読み取れる意味は「あなたは生け
る神様です」と言うことです。この時代の思想では、この
ような重い皮膚病を癒すことができるのはただ神様お一人
だけだと考えられていましたから、この病人の言葉は何と
素晴らしい信仰告白ではないでしょうか? ペトロがイエ
ス様にした信仰告白を思い起こさせます。このような確信
が無かったらこの病気の人は町に入ることはなかったはず
です。自分の病気の深刻さのため、イエス様が自分を遠ざ
ける可能性もあったでしょう。しかもイエス様が自分の病
気を癒してくださらなかったら、町の人々にどのような目
に会わされても何も言えない状況でした。しかし、彼はた
だイエス様に近づきました。
イエス様はこの病気の人の信仰を見て彼の病気を癒して
下さいました。その時、イエス様は彼に一言語られました。
それは14節にあるように「イエスは厳しくお命じになった。
だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、
モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明し
なさい。しかし、病気が癒された人はイエス様が命じられ
た言葉に従わず、人々にこの出来事を話してしまったので
す。それによって噂が広まり、イエス様はもうその場所に
居ることができなくなりました。
神様が私たちに求めておられる「従順」は私たちの思い
によって途中でやめてしまうものではありません。この箇
所に書かれた病人は最後までイエス様に「従順」すること
が出来ませんでした。そのため、イエス様は人里離れた所
に退くことになってしまいました。病気が癒されたこの人
が最後まで「従順」出来なかったことによってイエス様の
働きに大きな妨げが生じたのです。しかし、その反対にイ
エス様はこの働きよってご自分の使命を最後まで守り貫く
ことが出来ました。イエス様はご自分の思いではなく神様
への思いに集中するために、祈りに専念されたのです。
聖書では、病気が癒された人の話を聞いて大勢の人々
がイエス様の所にやって来たと書かれています。私たちの
考えでは、噂が広まったためイエス様は今までよりもっと
良い環境の中で神様の御言葉を伝えることも出来たはずで
す。しかしイエス様はご自分がこの地に来られた使命を忘
れないため、人々からの人気や名誉また富みを後にして人
里離れた場所で神様に祈りを捧げられました。イエス様の
使命はご自分をこの世に送られた神様の御心に従うことで
あります。イエス様は神様に対して最後まで「従順」する
姿を私達に教えられているのです。
私たちが毎週捧げる礼拝を通して、いつも主が喜ばれる
その基準まで「従順」できる皆様でありますように心より
お祈り致します。