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「わたしたちの『ヨベルの年』」(レビ記25:8~12)

掲載日 : [15-02-15]   照会数 : 5663

「わたしたちの『ヨベルの年』」(レビ記25:8~12)
在日大韓基督教会「中部地方会設立50周年記念礼拝」説教
2015年2月15日、於 名古屋教会
金性済牧師(在日大韓基督教会副総会長、名古屋教会)
 
I.「ヨベルの年」とは
 
聖書の中には、いくつかの重要な意味をもった数字が出てきます。「7」、「12」、そして今日の聖書の本文に出てきた「50」という数字です。
 
「7」は、私たちが創世記の天地創造の話からよく知るように、6日間で天地創造を終えられた神が、7日目に安息された、という安息日の7日目から来ています。「12」は、ヤコブの12人の息子から始まったイスラエル民族12部族の数から来ています。では、「50」という数字はというと、先ほどの安息日の7日目の「7」を、7年目の安息年として、畑の休閑期に応用したことが挙げられます(出エジプト記23:10~11)。さらに7年目の安息年の応用は、負債の7年目の免除として(申命記15:1~11)、また同胞のヘブライ人を債務奴隷状態、つまり借金返済ができなくて債権者の奴隷とされた現実から7年目には解放する規定(申命記15:12~15)が聖書に記されています。
 
それでは、レビ記25:8~12には何が記されているのでしょうか。7年目の安息年の「7」を、7倍した49年目の翌年を、ヨベル(角笛)の年として、負債のために債権者の手に渡っていた土地がすべて元の所有者に戻され、従って、負債のゆえに債権者のもとでの労働を余儀なくされていた人々が元の所有地に戻ることが許されるという規定なのです。
 
日本語聖書でヘブライ語をそのとおり訳した「ヨベルの年」が韓国語聖書では「禧年」(희년)と訳されています。ヨベルとはその解放を告げるために吹かれた角笛を意味し、その角笛の音とともに、それまで先祖伝来の所有地を失っていた人々が元の所有地に帰れたということでしょう。
 
残念ながら、私たちは、旧約聖書の歴史記録であるサムエル記や列王記などの書物や、預言書に、そのヨベルの年の解放制度が実際に実施されたという記録を見出すことはできません。しかし、今日の世界のキリスト教会が、先進国から多くの負債を負って苦しんでいる貧しい国々の負債を、富裕国はいったん免除すべきだ、という「ジュベリー」(ヨベルの英訳はJubilee)運動が15年ほど前に繰り広げられたことがあります。
 
さて、もう一つ興味深い問題があります。レビ記25章の13節から最後の55節までの本文には何が記されているかというと、一言で、土地の買い戻し権の規定についてです。土地の買い戻しとは、負債を負って遂に債権者の手に土地を売り渡してしまった者は、本人の努力か、親族の力で時間をかけてでもその土地を買い戻さなければならない、という規定です。
 
先ほどのヨベルの年の解放規定と、その後の土地の買い戻し規定とは、どのような意味を含んでいるのでしょうか。その二つの規定の根本にある教えとは、人々の経済活動の中で人間が作り出す貧富の格差によって、最後には土地までもが商品のように売り渡されてしまうことを、神は容認なさらないということです。だから、なんとか本人か親族の努力と力で買い戻しなさい、ということです。もしそれが人の力によって実現できないのならば、ヨベルの年に、神の言葉によって、すなわち神の力で、土地を元の所有者に戻すのだ、ということなのです。
 
いったいなぜ、このように土地の所有権を、神は守ろうとなさるのでしょうか。そこには、聖書が最も大切にする契約の信仰(神学)があるのです。つまり、神の民イスラエルとされた人々は、神との契約の中に置かれ、ひとつにされ、そして約束の地を、各部族、各氏族、そしてそれぞれの家族共同体に割り当てられたのです。しかし、土地の真の所有者は、レビ記25:23が言うように、神ご自身であり、神の土地を割り当てられたイスラエルの民は、「神とともに生きる寄留者たち(ゲーリーム)であり、滞在者たち(トーシャービーム)」(私訳)なのです。つまり、民は土地を私利私欲のために所有するのではなく、神ご自身の栄光と目的とご計画のために任されているにすぎないのです。神の民とは、エジプトの奴隷の苦しみから神によって解放され、今や、神ご自身のもの(奴隷<55節>)とされ、神の土地が任された民なのです。
 
この旧約聖書の教えは、今日、私たち、キリスト者にとって、教会とは何かを考える上で極めて重要なのです。教会とは、キリストを頭とするキリストの体であり、キリストという新しい契約によって、罪赦され、呼び集められ、キリストの体の肢としてひとつにされ、そしてこの世界に神によって宣教の場所(トポス)を任され、遣わされる群れなのです。私たちが踏み外してはならないこの教会論の根底に、レビ記25章の教えがあるのです。聖書に基づく契約の教えをしっかりと理解したうえで、私たちは今、私たちにとって教会とは何か、また地方会や総会、つまり在日大韓基督教会という存在がなぜ重要で必要なのかを理解していくことができるのです。
 
II.忘れがたい「50年」
 
私たち、中部地方会は今、設立50周年をこのように祝っていますが、在日大韓基督教会にとってはその前に忘れがたい歴史上の「50年」があるのです。それは、1934年に、今日の在日大韓基督教会の始まりとなった「在日本朝鮮基督教会」が創立されたことです。この1934年は、朝鮮にプロテスタント・キリスト教か初めて伝来した1884年から数えて50年目にあたる年だったのです。偶然ではなく、当然ながら、その創立を推し進めた当時の指導者たちは、朝鮮プロテスタント・キリスト教史50年目という「ヨベルの年<禧年>」を意識して、その年を選んだのです。その年は、1908年に在日コリアン宣教が東京朝鮮YMCAに開始し、東京教会が始まって、26年が経過してたどり着いた年でした。
 
当時、朝鮮長老派と朝鮮メソジスト派の伝道者たちが東京から西へと伝道をバラバラに推し進めていたところ、1927年から来日したL.L.ヤング牧師(宣教師)によって教派の合同化が推進されました。しかし、この合同化は大きな壁に突き当たったのです。ヤング宣教師たちは、その合同運動の暁に、独自の憲法を持ち、牧師や長老の按手ができる独立したひとつの在日教団の創立を目指そうとしていたのに、朝鮮長老派とメソジスト派は独立教団創立については承認しようとしなかったのです。
 
1934年2月に大阪東部教会において創立大会が開催されました。しかし、それは朝鮮の本国教団の承認なしの見切り発車だったのです。ヤング宣教師は4月に朝鮮長老教会に書簡を送りました。そこで彼は何と言ったかというと、朝鮮長老教会はカナダ合同教会から資金援助を受けているではないか。合同教会から援助を受ける朝鮮長老教会がなぜ、在日同胞の教会が合同教会になることに反対するのか、という内容だったのです。ものすごいパンチだったと思います。
 
さらに驚くべきは、在日コリアン宣教に心血を注がれたヤング宣教師の派遣教団は、1925年に実現したカナダでの合同教会に反対して参加しなかったカナダ長老教会所属の宣教師だったということです。ヤング宣教師の書簡が放たれたのち、ついに朝鮮長老教会はその年の9月に、そして朝鮮メソジスト教会は10月に在日本朝鮮基督教会の創立を承認することになったのです。
 
驚くべきは、神の御業です。当時の日本では、1900年代に入り、明治政府は天皇制国家神道体制を強固なものにするために全国の10万をはるかに超える神社を、伊勢神宮と靖国神社のもとに体系的に統合する政策を1913年頃に完成しました。1912年には「三教会同」という会議が内務次官床次次郎によって呼びかけられ、日本のキリスト教会の代表までがそこに招かれ、天皇制国家神道体制のもとでの国の政策に協力するように求められました。天皇制国家神道という政治的偶像崇拝にキリスト教会がひざまずかされる本格的な政策の開始であり、その政策は、遂に1939年の宗教団体法の成立に結実していくのです。
 
つまり、キリスト教を含め、日本国内の宗教はみな、天皇を神格化する国家の強力な統制のもとに置かれるようになり、そのような国家政策の流れの中で、日本では強力な上からの力で問答無用にプロテスタント諸教派を合同して、日本基督教団が1941年に作り出されることになったのです。そのような政策には当時は殉教の覚悟がない限り、軍部に統制された政府の圧力のもとで、もはやだれも抗えなかったのです。抵抗する者はことごとく特高警察の弾圧を受けました。つまり日本におけるプロテスタント教会の合同は、天皇制国家神道のもとに従属させられた形での教派合同であったのです。
 
一方、朝鮮においては、アメリカ大陸の各教派の強力な宣教援助のもと、各教派の合同運動が起こる余地はありませんでした。したがって、北東アジアという世界において、国家権力の手によらず、下からの力、いや神ご自身の導きによって教派合同が成功したのは、在日朝鮮基督教会においてであったということなのです。私は、この在日本朝鮮基督教会の誕生が、北東アジアの中で、神が日本の地にディアスポラ(離散)として苦難の現実を生きる貧しい在日コリアンの教会をあえて選び取られ、呼び集められ、そして神に遣わされる教会として成し遂げられた記念すべき神の事業であったと考え、語り伝えたいのです。
 
私は、時々、当時の朝鮮長老教会がなぜ在日本朝鮮基督教会の独立教団化に反対していたかについて、思いめぐらすことがあります。様々な思惑があったでしょうが、十分に考えられる点はこれだと思います。つまり、当時指導者たちは、最中にあった朝鮮の、日本による植民地支配は永久に続くものではないはずだ、と信じていたはずです。それが永久に続くものでないならば、植民地支配から解放された暁には同胞たちは解放された祖国に帰還するはずだと。ならばどうして在日コリアンの教会を独立教団として存続させていく必要があるだろうか、と疑念を抱いたのだと思うのです。
 
つまり、彼らは、1945年の解放についても知らなかったと同様に、解放後でさえ、約60万の同胞が在日生活を余儀なくされていくことも、日本社会において、また20世紀後半と21世紀の韓国と日本の愛差において担わなければならない使命が何であるかについても分からなかったのです。ただ歴史を導かれる神のみがすべてをご存知で、解放後に復活する在日大韓基督教会が「神の宝の民」(申命記7:6)として在日コリアン社会と日本社会の中で、さらに韓国と日本の間に在ってどのような宣教のトポスを与えられ、何のために遣わされるべきかを定めておられたのです。すべては神が知っていてくださり、キリスト者と教会は、ただその時そこでなすべきことをなす、与えられた持ち場(トポス)をひとつになって守り通すことが大切だと思います。
 
III.在日大韓基督教会の「ヨベルの年」と宣教地の「買い戻し」
 
在日大韓基督教会の歩んできたそのような歴史の意味を、私はレビ記25章の観点からもう一度捉えなおしてみるのです。すなわち、植民地支配から解放された1945年8月とは、それこそ在日コリアン・キリスト者たちのヨベルの解放の時であったと言えます。
それではその年12月になされた在日コリアン・キリスト者の日本基督教団からの脱退と「在日本朝鮮基督教連合会」の創設をどう見るか。私は、まさにこれはレビ記25章の言う宣教のトポスの「買い戻し」がなされた出来事だと思います。単純に土地ではなく、神が20世紀の後半から21世紀に向かって用いようとされる在日大韓基督教会の宣教の領域、あるいは場所の買い戻しがなされたのです。
 
解放直後、約210万人いた在日コリアンの大半が帰還し、結局、50数万人が日本に残され、やがて、朝鮮動乱のため、完全に帰還の道が絶たれてしまいます。しかしその中で、「宣教の使命を担うための場を買い戻しなさい」という主の命令によって在日コリアン・キリスト者は、神の「宝の民」として、また「残りの者<シェアル・ヤーシューブ>」(イザヤ書10:20~23;11:11,16;エレミヤ書31:7)として再び呼び集められることになったのです。
 
解放後も祖国に帰りそこない、祖国と懐かしい故郷から隔てられ、親族に不孝を行う罪責感を心に背負いながら、在日を余儀なくされた人々は、その恥と痛みを共にしてくださる主イエス・キリスト(ヘブライ11:16)のもとにかくまわれるように、無権利と貧困の現実の中で戦後の教会再建に祈りと力を注いでいったのです。そして主はその人々を十字架の愛の仮庵(かりいお)にかくまわれ、さらに未来の歴史のかなたを見つめておられたのです。
 
IV.在日大韓基督教会の買い戻しを導かれた神の摂理における3つの計画
 
私は、在日大韓基督教会の宣教のトポスの買い戻しを導かれた神の摂理について思いめぐらすとき、今にして思えば、そこに三つの計画が備えられていたと考えます。
第一は、在日大韓基督教会と日本基督教団、及び日本キリスト教会との和解の宣教協約です。それは、日本基督教団との間に1984年に、また日本キリスト教会との間に1997年に実現しました。そのそれぞれの協約文の本文を見ますと、明確に1945年以前の天皇制国家神道体制の下での政治的偶像崇拝に信仰をもって抵抗しきれずに犯した罪を、どちらもが告白し、悔い改める趣旨が記され、その前提の上に和解の再会が導かれ、そして宣教協力の道が導かれることが謳われているのです。私はこのように仮定してみるのです。もし、この三者があの過酷な歴史を体験することなく、またあのような偶像崇拝の過ちを体験することもなく戦後を迎えていたのなら、おそらく1984年のような、また1997年のような宣教協約は結ばれることなく、ひょっとすると今日に至るまでもお互いは無関心な間柄になっていたのではないか、ということです。むしろ、神の前に罪責告白せずにおれない教会として、両教団は十字架の主に導かれ、和解と協力の道に導かれるようになったのです。
 
第二は、戦前・戦後、在日大韓基督教会を担ってきた在日コリアン信徒の子孫たちと、80年代から新たに渡日してきたコリアン信徒の家族と、さらに日本人信徒、韓日の間に生まれた信徒、そして中国から渡日した朝鮮族信徒がひとつにされ、神に買い戻された在日大韓基督教会を、神の宝の民として継承していくことです。
 
それぞれ、自分がたどってきた出自も、抱える文化も違います。しかし、それらが主イエス・キリストのひとつの体の多様な肢として愛と平和によってひとつにされる共同体として主に向かってつくり上げられる(エフェソ4:15~16)ことが、今日の在日大韓基督教会の内的な課題であると言えます。自分のルーツとは何かという歴史観も文化も民族アイデンティティも異なります。しかし違いを超えて愛し合い、平和にひとつになれる共同体の模範となることを、主は願われるからこそ、今日の在日大韓基督教会があることを覚えたいのです。これはきれいごとではなく、時には互いの違いから起こりうる葛藤や軋轢をいかに信仰に基づく知性を研ぎ澄まされ、克服するか、という訓練を、私たちはさせられているのかもしれません。
 
第三は、在日大韓基督教会が、またその牧師と信徒が自分の恵みと祝福、そして自分の個教会にしか関心を持たなくなるのではなく、自分が招き入れられた教会が在日大韓基督教会としてより広い世界の中でどのような宣教のトポスを委ねられているかをしっかりと自覚することです。在日大韓基督教会は、日本社会と在日コリアン・外国人マイノリティの間に和解のしもべとして置かれているのです。
 
さらに、今日険悪な関係からの打開の道を見いだせずにいる日本と韓国・朝鮮の間においても和解のしもべとして遣わされているということです。韓国の韓国教会でもなく、日本の諸教会でもなく、その両者の間に立って、私たち、神に買い戻された在日大韓基督教会が神の計画に従って果たすべき和解の福音宣教の使命があるということです。言い換えれば、もし私たちが在日大韓基督教会に託されたその特別な使命を自覚できず、曖昧にし忘却してしまうなら、在日大韓基督教会としての存在理由を失うことを意味するのです。言い換えると、自分がなぜこの教会に踏みとどまるべきなのか、牧師も信徒もその存在理由を失うということです。
 
以上の三つの宣教課題を、神の摂理の中から買い戻された在日大韓基督教会に託された計画として、今日の在日大韓基督教会の一つひとつの教会が、そして5地方会がひとつにされていくという原点に、私たちは立ち帰らなければなりません。
 
V.「契約」の神学と歴史の学び
 
旧新約聖書に一貫する神学とは、神の民、またキリストの体なる教会共同体とは、契約の民という教えです。なにも選ばれるに値しない存在が神の一方的な愛と憐みによって選び取られ、神の立てられる契約の中に置かれ、神のものとされ、神のご計画のために遣わされることにおいてひとつにされる共同体となることです。
 
教会は、その真理を聖書に教えられ、また私たちは歴史における神のくすしき導きの中で体験してきたのです。教会は従って、たえず聖書と歴史の学びを怠ってはなりません。まず教会の牧師と長老がしっかりしなければなりません。その学びを怠り、契約の神学がふらついてしまうと、私たちは個教会の祝福と繁栄に優先順位が置かれ、地方会の存在理由も、総会として教団としてひとつにされている意味を見失ってしまうのです。互いにつながり、聖書に基づくひとつの憲法のもとにどの教会も公平平等に服し、在日大韓基督教会全体が日本の中で、韓日間において、また北東アジアと世界において遣わされる主の契約共同体であることを、私たちは厳粛に受け止め、その理解を分かち合い、継承していかなければなりません。
 
牧師とは教会にとって、ある意味で旅人のような存在かとも思います。主に「行け」と命じられれば行かなければならず、「留まれ」と命じられれば留まります。長老と信徒たちは、そうではなく、教会内に籍を置き、幾世代にわたり、教会を継承していくことが期待されます。これから在日大韓基督教会において仕える教役者は、日本出身か、韓国出身かのどちらかでしょうが、いずれにせよ、過去の歴史からどんどん遠ざかっていきます。ですから、若い世代から、信徒も含め、こんな言葉がいっそう出てくることも予想されます。「そんな昔の話が今の教会の伝道と成長と何の関係があるのか?」と。ユダヤ人家庭を例にとるならば、彼らは今日まで、世界に離散する生活を送ろうとも、自分のアイデンティティの確認と継承のために欠かさない行事として「過越しの祭り」を春に家庭で守ります。その時儀式の一つとして長男が父に問うのです。「今日は何の日ですか」と。父は、その問いに対して「過越しの祭り」の由来を、出エジプトの話と合わせ家族に語り聞かせるのです。はたして、今日の在日大韓基督教会において、牧師、そして長老をはじめ、信徒の家庭において、聖書をひも解きながら、自分の教会の歴史、そして在日大韓基督教会の歴史をどれくらいの人々が子らに語ってきたでしょうか、また語りえる備えがあるのでしょうか。
 
私は、大変巨視的に在日大韓基督教会の歴史と未来についてこのように見渡すのです。朝鮮が強制併合によって日本の植民地支配を本格的に受ける2年前の1908年に、主は先回りされ、在日宣教の種を東京に蒔かれた。1934年には唯一、在日のディアスポラが神に選び取られ、諸教派が神の導きによってひとつにされ、在日朝鮮基督教会が誕生するようになった。1940年から在日朝鮮基督教会は解散を余儀なくされ、天皇制という偶像に服する日本の教会に強制併合される暗黒の時代を5年間潜ることになった。しかし、1945年8月にヨベルの年を迎え、解放され、12月には神に私たちは買い戻され、以来、今日の在日大韓基督教会の復活が与えられた。1968年、宣教60周年を迎え、「キリストに従ってこの世へ」という標語と共に、在日大韓基督教会は40年間、差別抑圧された在日コリアンの人権の確立の宣教のために主に用いられる荒れ野の道を歩んだ。そして、2008年に宣教100周年を迎え、宣教の第二世紀へと入った。この第二世紀の最初のところで私たちは今教会内部の和解への険しい道を十字架の主と共に歩んでいる。しかしそれは、この第二世紀に在日大韓基督教会が韓国と日本の間にあって、またこの日本社会の中で、本当に和解の福音宣教を担うにふさわしい教会として立ち直り、成長し整えられるために、まるで陶工が新しい器を作るために粘土をこねるように産みの苦しみである(エレミヤ書18:5~6)、と。
 
乱暴な要約ではありますが、詳細な歴史記述に踏み込まず、一言で在日大韓基督教会の歴史と展望を語ることが求められるなら、私はそのように要約し、語り伝えようと考えます。
 
VI.むすび
 
在日大韓基督教会の宣教の第二世紀は新たな荒れ野の40年として始まったと思います。その中で、中部地方会は、今日、関東地方会から分立した1964年の第1回定期総会から数えて最初のヨベルの年を迎えました。不思議にも、歴史の記録をひも解きますと、この中部地方に最初にコリアン・キリスト者の家庭の存在が確認されたのは1924年に名古屋に朝鮮人キリスト者あり、という記録です。そこから名古屋教会が始まっていきます。その1924年から数えれば、中部地方会第1回定期総会の1964年までは40年となります。つまり、まず荒れ野の40年の歴史の後に、中部地方会の50年の宣教の歴史のヨベルの年が訪れたということです。なんと聖書的な地方会でしょうか。第二のヨベルの年に向かって今日から歩み始める私たち、中部地方会は、これからも聖書と歴史に深く学びながら、買い戻された中部地方会の一つひとつの教会を愛し、助け合いながら、教会内において、中部地方の地において、また日本社会と韓日の間において和解の福音宣教の道を共に歩み続けましょう。


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