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感謝の百年、希望の百年。すべての事について、感謝しなさい。(テサⅠ5:18)


総会のお知らせ

2016年 教役者・長老研修会 主題講演原稿<琴周燮牧師>

掲載日 : [16-07-20]   照会数 : 4366

変革的弟子としての宣教と預言者的少数者の使命
(The Role of Prophetic Minorities in the Mission of Transforming Discipleship)
琴周燮(WCC世界宣教と伝道委員会総務)

2017年の宗教改革500周年を前にして、在日大韓基督教会の新しい改革と宣教の課題を振り返る「全国教役者長老研修会」に講師として招かれたことを光栄に思います。招待して下さった金性済総会長、金柄鎬総幹事、教育委員会の皆さまに感謝いたします。

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人も、信じる者すべて に救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1:16上)

わたしたちは、福音を伝えることについて、なぜ恥ずかしいと思うのですか?
わたしたちの宣教が、生命を否定することではなく、生かすことであれば…
わたしたちは、福音を伝えることについて、なぜ恥ずかしいと思うのですか?
わたしたちの宣教が、わたしたちの王国ではなく、神の国を明らかにすることであれば…
わたしたちは、福音を伝えることについて、なぜ恥ずかしいと思うのですか?
わたしたちが伝える良い知らせが、エルサレムの権力者たちではなく、ガリラヤで苦しむ人々に良い知らせであるなれば…

福音、弟子道、勇気、力動性、情熱、喜びと希望!去る2013年の秋、韓国の釜山で開催された第10回WCC総会において、新たな宣教声明が承認された瞬間、わたしの心の中には、これらの言葉が浮かびました。20世紀までの宣教の歴史は、葛藤と分裂に綴られたし、時には、神さまの宣教を深刻に歪曲しました。そしてエキュメニカルとエバンジェリカル(福音派)に両分され、互いに議論し告発しながら宣教運動について否定的なイメージが深くなりました。前世紀の世界宣教運動のすべてが正しかったと抗弁しているわけではございません。また、建設的な評価と批判が健全な宣教学の発展のために必要ではないということでもございません。

わたしは、宣教声明(共に生命に向けて:変化する地形の中での宣教と伝道)を作成しながら、「神さま、この新しい宣教声明が世界宣教の新たな関心を呼び起こし、宣教の肯定的なイメージを広め、聖霊の力の中でエキュメニカル宣教運動を再び促進させて下さい」と毎日祈りました。

ピータークルーチリというウェールズ(Wales)の宣教学者は、「新しい宣教声明は、教会の門の中で変化された世を見る人々に多くの新しい展望を示す。これらの展望と定義の解釈学、福音伝道、対話、癒し、一致と更新の主題が聖霊の宣教という全体を虹のように包括する概念の下で共に調和されている。「共に、生命に向けて」とは「希望と情熱」の文書である。聖霊は、教会が連合して共に生命に向かって行進するように、わたしたちを呼んでいる」と言いました。

冒頭に、わたしがWCCの新しい宣教声明に言及している理由は、わたしたちに聖霊の宣教が吹き込んでくれた「希望と情熱」の故です。わたしたちが過去を回顧し記念する理由は、過去から教訓を得るためでありますが、未来に向けて進むべき道を見つけることができるエネルギーの湧水であり、ビジョンの地堺になるからです。宗教改革500周年を迎え、在日大韓基督教会が新たな未来のために最も必要なものは何でしょうか。すべての新しい計画には、聖霊の働きによる「希望と情熱」が必要であり、それによって前進することができます。

本日、あたしはWCCの新しい宣教声明が強調しているいくつかの新しい宣教神学的概念の中で、「聖霊の宣教」と「周辺部からの宣教」という概念に焦点を当て、「変革的な弟子道としての宣教と預言者的な少数者の使命」という題でお話をいたします。


宣教的霊性

ヨハネによる福音書20章を見ると、イエスさまが十字架で死んだ後、弟子たちはユダヤ人からの迫害を恐れ、戸を閉めて屋根裏部屋に隠れている場面が出ます(19節)。今日、わたしたちが住んでいる世界でも、イエスに従う弟子たちが世に向けて戸を閉め、自分たちの信仰共同体の維持だけを重要視する場合があります。特に、日本のような宗教社会的な状況の中では、なおさら伝道が難しいでしょう。嫌韓デモ、人種差別の強化、軍国主義が復活する状況の中でマイノリティとして生きて行くことに恐怖を感じます。

しかし、福音は、わたしたちを別の方向に導かれます。恐怖で震えている弟子たちの中にイエスさまが来られて言われました。「恐れてはいけない」、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったようにわたしもあなたがたを遣わす」(21節)。主は勇気を与え、平安をもって癒し、弟子たちを世の中に派遣されました。ですから、戸を閉めて、隠れて、恐怖に震えることは弟子たちの召命ではありません。主は、弟子たちに「命の息」を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われました(22節)。そして弟子たちは、世に向かって門を開けました。平安の中で進み出ました。主が担った宣教の道に従って進みました。

フランシスコ教皇は、彼の宣教教書である『福音の喜び』の中で、このように促しました。「わたしたちのすべての福音の歓喜と喜び、そして情熱を回復して深化しましょう。さらに、わたしたちが涙を堪えなければならない不義と苦みの状況の中でも…」。自分たちの安全のために、後ろに隠れることは宣教的遺伝子ではありません。主は、わたしたちに「恐れてはいけない」、世の真ん中に「安心して行きなさい」と召して下さいます。真の宣教は、教会が世と出会う時に開始されます。宣教は、わたしたちよりも先に世の中で臨在されている聖霊の働きを見出し、その働きに参加し、連合する時に生まれます。

「聖霊の宣教」は、ただの神学的な概念ではありません。ペンテコステ派のトレードマークでもありません。神さまは全ての世(oikoumene)を神さまのかたちで創造されましたので、生命を維持し、保護して生かすために、世の中で働かれます。わたしたちは、イエス・キリストをこの世の生命であり、世のための神の愛の受肉(ヨハネ3:16)であると信じます。万物の中で生命を満たすことがイエス・キリストの究極的な関心であり、宣教なのです(ヨハネ10:10)。わたしたちは、生命の聖霊の神さまを信じます。聖霊は、生命を支え、力を与え、全被造物を新たにされます(創世記2:7、ヨハネ3:8)。生命を否定することは、生命の神さまを否定することです。神さまは、わたしたちを三位一体の神さまの生命を生かす宣教に招待し、新しい天と新しい地で、万物のための豊かな生命のビジョンを証しするように力を与えて下さいます。

宣教は、三位一体の神の御心で始まります。三位一体を一つにまとめる「愛」は、全人類と創造の世界にあふれるものです。息子を世に派遣された宣教師である神さまは、すべての神の民を召し(ヨハネ20:21)、希望の共同体になるように力と希望と情熱を与えて下さいます。教会は、聖霊の力の中で生命を祝福し、生命を破壊するすべての勢力に対抗し、それを変革させる使命を受けました。来る神さまの統治を伝える生きた証人になるために、「聖霊を受けること」(ヨハネ20:22)が重要です。わたしたちは、聖霊の宣教を新たに認識することを通して、今日のように変化する多様な世界の中で、神さまの宣教をどのように実現していくことができるかを想像して見る必要があります。

聖霊の中にある生命は、宣教の本質であります。わたしたちがこの働きに参加するする理由でもあり、どのように生きて行くのかという問いの核心でもあります。霊性は、わたしたちの生活に最も深い意味を提供するし、わたしたちの行動に動機を与えます。それは、創造主から来る聖なる贈り物であり、生命を肯定して守る神聖なエネルギーです。これらの宣教の霊性は、神の国の民の霊的な献身を通して、神の恵みによって世を変えることができる変革の力動性を持っています。

わたしたちは、生命を生かす変革的な霊性としての宣教を宗教改革500周年を迎える前に、どのようにして新しくすることができるでしょうか。それは変革的な生命を生かす霊、つまり聖霊の力を受けることから始まります。今日、多元的な世界において、キリスト教宣教のための聖霊論的パラダイムをWCC世界宣教と伝道委員会が注目する理由でもあります。願わくは、在日大韓基督教会と共に、全世界の教会が宗教改革500周年を迎え、聖霊に満たされることを願っております。聖霊に満たされるということは、わたしたちの教会が、生命の霊性、変革の霊性、宣教の霊性に満たされ、活発に動き、元気があふれるという意味です。わたしたちの生が主の道に従う望みと情熱に満ちているということです。


真の弟子道

ヨハネによる福音書20章では、聖霊を受けた弟子たちが門を開いて世の中に出て行った時、彼らを待っていたのは、日常の生活の中で、依然として疲れ、飢え、貧しく、病気と戦う人たちでした。弟子たちは、少数でした。彼らも貧しかったです。自慢できるものは何もありませんでした。ユダヤ教からは、異端勢力として弾圧されました。まるで乞食が乞食を助けるという姿でした。しかし、弟子たちは「金や銀」はないが「ナザレのイエス」の名によって、疲れ果てて、何の希望もない民衆たちに会いました。一体、使徒たちはどのようにして、このように無力であり無能な民衆と共に希望が豊かな新しい共同体を形成することができたでしょうか。

一つの例を見てみましょう。アンティオキアは、ローマ帝国の属領であるシリアの首都でした。帝国の中では、ローマ、アレクサンドリアに次ぐ三番目に大きな大都市でありました。そのため、多宗教、多人種、多文化の社会でした。上水道があり、夜間には街灯で町を明るくするほど開放されるほど、洒落た現代的な都市でした。ステファノ執事の殉教によって、彼に従っていた信徒たちはシリアに避難しました。その中の一部がアンティオキアのユダヤ人とギリシャ人たちに福音を伝えました。信じる人が増えて、聖霊が臨みました。その結果、エルサレム教会はバルナバを派遣しました。彼はサウルと共に働きながら大勢の人に教えました。彼らは、歴史の中で、初めて「キリスト者」と呼ばれるようになりました。

使徒言行録13章を見ると、初代教会は、教会史的に転換期を迎えます。歴史の舞台がエルサレムからアンティオキア教会に移ります。使徒言行録の後半はアンティオキア教会が中心になって広がる世界宣教の歴史です。アンティオキア教会がしっかりとした教会として形成され、本格的な宣教のために最初に行ったことは指導者を選ぶことでした。 13章1節を見ると5人の指導者を選びすが、彼らは以下の通りです。

バルナバは、ギリシャ系ユダヤ人でキプロス出身でした。エルサレムの教会が派遣した最初の宣教師として、その代表性と権威を持って初期のアンティオキア教会の基礎を据えました。サウルが使徒的権威を持つパウロとして浮上するまで、彼は異邦のキリスト教の代表でした。彼は、エルサレム出身ではなかったのですが、アンティオキア教会の初代の指導者として選ばれるほど認められました。

わたしたちは、第二の指導者を注目すべきです。黒人(ニゲル)シメオンです。彼は、アフリカのニジェール出身の黒人奴隷でした。彼の選出の知らせを聞いたアンティオキア社会、いや、全ローマ帝国が大きな衝撃を受けました。ローマ時代の奴隷は獣よりも低い存在であり、ハエのような命を持っている運命でした。ところが、アンティオキア教会は、この黒人奴隷出身を最高指導者として推戴しました。もし、わたしたちがその当時の奴隷として生きていたならば、どのような反応を示すでしょうか。わたしならこの新しい教えに狂ってしまうと思います。心臓がドキドキして熱くなりませんか。福音の働きは、その始めから世の秩序と価値、身分と制度を根こそぎ変革する力を持っていました。世は、この少数の「キリストに従う人々」をどうすることができませんでした。韓国キリスト教の初期の歴史にも、금산教会 조덕삼長老と이자익牧師のような福音の働きがありました。在日大韓基督教会の108年の宣教の歴史が、このような変革の歴史ではありませんか。

ルギアは、地の果てだと言われた遠くの辺境であるアフリカのリビアから来ました。最初から宣教的教会を念頭に置いた布石でした。彼は、アフリカのアテネと呼ばれたクレネで良き教育を受け、複数の言語を話すことができる人物でした。しかし、彼もやはり指導者として選ばれるほどの勢力がアンティオキア教会にはいませんでした。

マナンは、上記の3人の指導者たちとは異なり、非常に豊かな背景を持ってました。出身も華やかでした。ヘロデの弟として宮殿で育ったので、権力者たちを知っていました。ですから、彼らに福音を伝えることができる適格者でした。事実、彼はパレスチナ生まれのギリシャ人でした。しかし、彼の地位やお金を利用して選挙に使いませんでした。このように、誰も本格的なヘブライ派のユダヤ人がいなかったのです。しかし、最後に、サウルがその穴を埋めてくれました。

ある意味では、雑煮のようなこの5人の指導者たちが歴史上初めて異邦教会を建てました。そして、キリスト教をグローバル化し、アンティオキア教会を世界宣教のセンターとして発展させて、福音をもってローマ帝国を征服しました。この5人の指導者たちが宗教改革500周年を迎えるわたしたちに与える教訓は何なのでしょうか。

1.5人のリーダーシップの多様性に注目する必要があります。それぞれ異なる出身と身分、文化と人種、地域的な背景により、様々な聖霊の賜物を発揮することができる構造でした。今日、わたしたちの教会も牧会者中心の単一のリーダーシップではなく、女性や信徒、宣教師や教師、青年と壮年が調和され、様々な賜物を思う存分活用できる賜物共同体としてのリーダーシップの構造に変化する必要があります。

2.民主的な体制でした。アンティオキア教会は、一人の帝王的なリーダーシップではなく、集団のリーダーシップによって動きました。使徒言行録が記された当時、すでに異邦人の使徒としてパウロの位相はペテロに匹敵していました。しかし彼は、最後にサウロという名で謙遜に登場します。一人のリーダーがすべての権力を独占する構造は、一見効率的には見えます。しかし、リーダーが誤った判断をした時、腐敗した時、それを補完する装置がありません。

3.霊的なリーダーシップが強調されました。アンティオキア教会がリーダーを選ぶ時の基準は二つでした。それは預言者的なリーダーシップと教える能力でした。その他の世的な価値は考慮の対象ではありませんでした。僕である이자익が地主である김덕삼の従順と献身的な行動によって、初期の長老教会の総会を顕著に導いたように、バルナバとパウロが伝道旅行をする時に奴隷出身であるシメオンが宣教の前進基地としてアンティオキア教会を安定的に成長させたのです。そして、すべての信徒が彼の霊的な指導力に従いました。

4.宣教的なオリエンテーションが確実でした。行政と治理、経営と制度がありましたが、宣教的課題が最優先でした。5人の指導者は、数次に渡って自ら宣教師として働いたし、アンティオキア教会を宣教的教会として形成して行きました。グレコローマン世界全体を自分たちの教区として考えました。帝国の隅々から疎外されたすべての民族(民)を対象に、神の国の福音を広めて行きました。

5.彼らは犠牲的な指導者でした。彼らは、使徒たちに従って、主のために自分の生命を出すほど殉教的な指導者たちでした。アンティオキア教会の指導者になることは、福音のために自分の生命を差し出すことを意味しました。その姿を見て、アンティオキア教会の青年たちは、ローマの獅子の穴も恐れず、世界の富と栄えも追求せず、天の国の永遠な価値、永遠の生命を慕い、主が歩まれた十字架の道に沿って歩むことができました。

愛する在日大韓基督教会の牧師と長老の皆さま!アンティオキア教会の5人の指導者たちもそれを成し遂げました。ですから、わたしたちができない理由は一つもありません。この地で、マイノリティとして生きるわたしたちが、大日本帝国を神の国の福音の価値を持って、根こそぎから変革する夢を見ましょう。唐突ですよね。しかし、信仰とはあり得ないことを信じることです。この世に、十字架の処刑と復活よりも不合理なニュースがどこにありますか。神さまが、あまりにもわたしたちを愛したので、天の御座を捨てて、この地に降りて、わたしたちの足を洗い、わたしたちの罪の代わりに処刑されたというニュースより信じがたい知らせがどこにありますか。そのお知らせを福音だと、真理だと信じて伝える人々が、今日、ここに集まったわたしたちなのです。

昨年11月、わたしたちは、東京の在日本韓国YMCAにおいて、在日大韓基督教会、韓国教会、日本教会、世界教会の代表たち約130余名が集まり、「マイノリティ問題と宣教に関する国際会議」を成功的に開催しました。日本で増加しているヘイトスピーチと人種差別を懸念して、金性済総会長、金柄鎬総幹事、許伯基牧師がWCC世界宣教と伝道委員会と国際委員会に訴えて、スイスと日本の東京で二回の準備会議を経て組織されました。1970年代、90年代に続き、20年ぶりに開かれた第3回国際エキュメニカル会議でした。その時開かれたWCC実行委員会は東京会議を注目しました。東京会議の声明を受け取って、すぐに引用して、WCCが人種差別と嫌悪に対して世界教会の宣教と人権の次元で対応して行くことを決意しました。

WCCは、1960年代からフィリップ前総務の主導で「人種差別撤廃プログラム(Programme Combat to Racism)」を世界宣教と伝道委員会の中に設置して、闘争に乗り出すまでには、三つの国で起こった運動が大きな貢献をしました。まず、マンデラが率いる南アフリカの「アパルトヘイト闘争」、そしてアメリカのキング牧師が率いる「市民権益運動」、そして在日大韓基督教会の在日同胞の「人権運動」です。この三つが協力してPCRを誕生させたのです。故李仁夏牧師がWCC PCRの副議長として仕えました。李牧師が天に召された時、コビア前WCC総務の追悼の辞をわたしが作成して発表しました。ですから、WCC CWMEは、東京会議の要請を受けて、過去PCR当時、在日大韓基督教会とのパートナー教会を接触し、彼らは快く協力して下さいました。さらに、アメリカ教会の「Black Life Matters運動」と連帯するようになり、WCCが長い眠りから目覚め、人種差別の問題について、再び関心を持つきっかけになりました。

わたしは、在日大韓基督教会が少数であり、韓国の大きな教団のように莫大な資金と教権はありませんが、神さまが世界の教会と宣教のために用いて下さっているという確信があります。なぜなら、在日大韓基督教会は、他の教会が理解することができない預言者的想像力を持った創造的少数だからです。神の国の福音の価値を世の価値と妥協することなく、変革の弟子道の道を歩んでいるからです。

わたしたちは、福音が個人と価値観、階級、社会、構造と体系、さらに世を変革することができる力があると信じています。神の国の福音は、少数の既得権を維持するために必死に守っている希望のない世界に挑戦します。ローマ帝国さえも数少ない群れである弟子たちには敵いませんでした。皆さん、世はわたしたちに敵いません。なぜなら、わたしたちは、神の僕であり、キリストの弟子たちだからです。わたしたちは、生命の希望を切に望んでいる苦難を受ける人類と創造世界に「喜びの良いお知らせ(Good News)」を宣言しなければならない使命を持っています。

福音には、受信者に向けられた神さまの一方的な愛があります。わたしたちが伝える知らせが「良い知らせ」なのか「悪い知らせ」なのかは、その知らせを受け入れる受信者が判断します。イエスさまが伝えた知らせは、ガリラヤで苦しむ人々にとっては良い知らせでありましたが、エルサレムの権力者たちと宗教指導者たちにとっては体制を脅かす悪い知らせでした。彼らにとってイエスさまは、自分たちが享受していた権力と教権、経済的な特権に対しての脅威として受け入れられました。彼らが信じている神は、わたしたちが信じている神さまとは違う方でした。彼らは自分のお金と権力、そして地位を永遠に守って下さる神さまを信じました。人間は神のために存在するのではなく、神が自分たちの幸福と安全のために存在していたのです。今のまま、代々限りなく永遠に、その特権を享受するために、それで彼らはこの世に来られた神の子さえもためらうことなく十字架につけたのです。

わたしたちは、今の世の中でどのような知らせを伝えていますか。もしかしたら、わたしたち自身が欲望から脱出することができず、自分の中で安住し、わたしたちだけが理解できる言語で話しているのではないでしょうか。イエスさまは、神の国の運動を神殿の中で開始していません。門の外に捨てられた人々、病人、亡命者、野宿者、失業者たちでした。彼らの中で神の国を宣言しました。「貧しい人は幸いである。神の国は彼らのものである」と。わたしたちの目が周辺部の人々、マイノリティの人生を生きている人たちに向かっているならば、わたしたちは、イエス・キリストの福音を伝えることを決して恥ずかしく思ってはいけません。わたしたちの宣教が彼らに何か良いことを伝え、行なっているならば、わたしたちは勇気を出して、イエス・キリストの話を分けてあげるべきです。

現在の世界は、大混乱の時期を経験しています。弱い者たちは、何の保護装置もないまま墜落の断崖に押し出されます。少数者たちは憎悪の対象になっています。若者たちは二極化のため、人生を出発する機会さえも剥奪されています。世界中が不安の中で、戦争とテロ、憎悪と恐怖を通して自分たちの利益を守ろうと極端な選択をしています。まるで原始時代の無法地帯、弱肉強食の時代に戻って行く反文明の時代が、21世紀を生きるわたしたちの目の前に繰り広げられています。

このような時代に、世は、わたしたちに向かって問うのです。「あなたたちは、イエスの弟子たちですか」。わたしたちは果たしてイエスの真の弟子たちでしょうか。韓国の江南の真ん中に、大韓民国の最高のエリートたちが受けていた弟子訓練は真の弟子道でしょうか。それが果たしてイエスさまが歩んだ道でしょうか。イエスの弟子になることがそんなに安価で簡単でしょうか。今日の世界と教会の危機は、わたしたちのようにイエスを信じている人たちの弟子道の喪失と妥協に原因があると、敢えて断言します。教会を教会にならしめるものは、数字や財政ではありません。わたしたちが証する弟子道のレベルです。今日、お金がすべてを可能にし、わたしたちを安全にすることができるというマンモンの崇拝が福音の信頼性を脅かしています。こんな世の中で、世界を変革することができる真の弟子道はどこにありますか。帝国の教会、マンモンに染まった教会からは決して出てくることはできません。門の外で、残されているキリストの苦難の十字架を負う宣教運動の現場で、改革と更新の風、聖霊の風が起きなければなりません。


周辺部からの宣教

ヨハネによる福音書5章を見ると、イエスさまはベトザタの池のほとりで38年間も病を患わっている病人を癒しました。その日は、ちょうど安息日でした。それにより、ユダヤ人たちは、初めて、イエスを殺そうと謀議しました。主は、律法の文字的解釈と適用が宗教改革の信仰であると固く信じていたファリサイ派の人たちから苦しみを受けることをご存じでした。しかし、病人に対して「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じられました。

イエスさまの時代に、四つの集団が互いに「自分たちがイスラエルの回復と改革に代わるものである」と競合しました。上品な「ファリサイ派」の人たちは、神殿の宗教的な権力だけを守ることができれば、神さまの預言者たちさえも処刑しました。そして、一日の食事を心配しなければならない人々に、到底守ることのできない律法の条項を強要し、それが真の信仰改革だと押し付けました。さらに、それを守ることができる自分たちだけが祭司だと主張し、地位を独占しました。その体制の根幹である安息日の戒めを揺るがすイエスを絶対にゆるすことができませんでした。

高学歴の「律法学者」は、世の権力だけを守ることができれば、復活の教理のような宗教的な信念を古い草履のように捨てました。彼らは、律法を筆写して再解釈するほどの知識を持っていたにもかかわらず、その学問をひたすら出世のためだけに使いました。彼らにとって、イエスさまの新しい洞察と神の国の福音は、世の中の原則と現実も知らず、ユダヤ教の歴史と教義にも合わない、一人の理想主義者として、すぐに消えて行く一場春夢(人の栄華はひとときで終わる事)に過ぎませんでした。

自分たちが偉いという自慢を持って生きる「ヘロデ党」員たちは、自分たちだけが世の正義のために働くと信じていました。古い革命理論を踏襲し、変​​化することができませんでした。武装闘争を煽りながらテロも行いました。暴力に慣れながら人間性を失い、古い社会分析理論を強要する進歩を装った守旧勢力でした。「弱者のために」と言いながらも、日常の生活の中での行いは全くない進歩理念のファリサイ派の人々でした。彼らは、イエスを革命の裏切り者として見ました。

聖なる群れである「エッセネ派」にとって世の中は、希望がなく、腐り切って破滅するところに過ぎませんでした。審判と裁きから逃れるため、砂漠の洞窟の中に入って、世から戸を閉めました。世の中で何事が起っても、自分たちは知らない。自分だけがきちんと信じて天国に行けば良かったのです。もう少し上品な言い方をすると、霊的な修練を通して聖化を成し遂げることが先でありました。その霊的な能力だけにのみ、世を正すことができると、彼らは信じていたのです。だから戸を閉めて、自閉的な信仰を養って行きました。彼らにとってイエスは、まだ、霊的に未熟な者であり、信仰の社会的側面だけを強調している未熟な指導者だと見ました。

最後に、「イエス」です。安息日に池のほとりで病の中にいる患者を見て、通り過ぎることができず、癒すことによって、死に直面したあの方なのです。しかしイエスは、運がなかったと言わず、むしろ空腹の者、のどが渇いた者は誰でも来るように招待しておられます。「お金がなくても大丈夫だ」、「学びが足りなくても大丈夫だ」、「何の代価なしに葡萄酒と乳を持って行きなさい」と言われます。「わたしが代わりに死んでも大丈夫だ」と言われます。その生命をもって永遠に渇くことのない生命の水をわたしたちに与えて下さいました。それゆえ、誰よりも貧しかったわたしたちの生は、その方の生命のほとりで根を下ろし、やがて実を結び、わたしたちを通して国々や民族を癒すようにして下さいます。わたしたちを通して、すべての目の涙を拭い、新しい天と新しい地を開いて行く壮大な計画を持っています。

孟子は、歩き始めた赤ちゃんが危険も知らずに深い井戸の方に走って行く姿を見て、走って行ってその赤ちゃんを抱くことを「惻隱之心」だと表現しました。その「仁」の心が人となることの根本だと言いました。わたしたちの主であるイエスの「惻隱之心」は「憐れむ心」(compassion)です。主は、人の切ない痛みを見た時には、自身の腸が切れるほどの「断腸」の痛みを覚えました。その「惻隱之心」が奇跡を起こす一つの要因(動因)でした。その主の御心に倣って生きることが信仰です。その主の御心を広める所が教会です。その御心を回復することが改革です。

宣教とは、中心から周辺へ、社会の特権層から疎外された階層的に動く運動だと理解されて来ました。しかし、今は周辺化された人々が宣教の代理者として自分の核心たる役割を求めており、宣教の変革だと主張しています。宣教する者の役割の反転は、聖書的な土台を強く持っています。神さまは貧しい人、愚かな人、弱い人を選び(Ⅰコリント1:18~31)、正義と平和と生命の神の宣教(mission Dei)を進展させ、生命が繁栄するように働かれます。

世に向けた神さまの目的は、もう一つの世を創造することではなく、神さまが愛と知恵の中で、既に創造されたものを再創造することです。イエスさまは、ご自身に聖霊が下ったのは抑圧された者を解放させ、目の見えない者を再び見えるようにし、神さまが統治するヨベルの年を宣布するためである(ルカ4:16~18)と宣言されました。イエス・キリストは、生命を否定するすべてのものに対抗し、変革するために、社会の中で最も疎外された人々と関係を結び、彼らを抱きました。これは、蔓延した貧困と差別、非人間化を生んで維持させ、人間と土地を搾取して破壊する文化と制度を含んでいます。周辺部からの宣教は、権力の力学、グローバル制度と構造、そして地域的状況の複雑さに対する理解を求めています。キリスト教の宣教は、度々、引き続き周辺に押し出される人々と神さまが連帯しておられることを認識しないまま教育され、実行されました。したがって、周辺部からの宣教は、万物のために生命に満ちた世界を作るために働かれる神さまの霊から来る使命を教会の宣教使命として再構想するように招待します。

周辺部からの宣教は、人生と教会と宣教の中で不正義を防ごうと努力します。それは、力のある者が弱い者に、金持ちが貧しい者に、特権を持つ者が疎外された者に宣教することができるという認識を拒否して、対案的な宣教運動になることを求めています。そのようなアプローチが抑圧と周辺化に寄与することができるからです。周辺部からの宣教は、中心部に存在することが自己の権利と自由と個性が肯定され尊重される制度の中に入るものであり、周辺部に生きることは、正義と尊厳から排除されることを知っています。しかし、周辺部に生きるということは、それ自体で教訓になり得ます。周辺部にいる人々は、中心から見ることができないことを理解することができます。弱い地位を持って生きていく周辺部の人々は、どのような勢力が自分たちの生存を脅かしているかを知っています。自分たちの生活の切迫性を最も詳しく認識することができます。したがって、特権層の人々は周辺的な条件の中で生きていく人々の日常の苦労から学ぶものが多いです。まさに、このことは韓国教会、アメリカ教会、世界教会からは見ることができないものです。しかし、在日大韓基督教会のマイノリティとしての抑圧と闘争の経験から、正しい教会、真の宣教とは何かを目覚めさせています。わたしはこれを「預言者的少数者としての宣教の使命」だと呼んでいます。

周辺部の人々は、神さまから与えられた賜物を持っています。しかし、十分に活用していません。その理由は、能力開発の機会が剥奪され、公平な機会が遮断されるからです。その代わりに、周辺部の人々は自分たちの生の中で、生き残るための戦いを通して積極的な希望と集団的な抵抗を持っている者、そして約束された神さまの統治を信頼するために必要な忍耐を持っている者になります。

神さまの宣教(missio Dei)を信じるということは、神さまは歴史と創造の世界の中で、具体的な時間と状況の実在の中で動き、正義・平和・和解を通して全地の生命を豊かにされる方であることを告白することです。ですから、わたしたちが聖霊を通して、神さまから持続される解放と和解の働きに参加することは、搾取し奴隷化する悪魔を分別して、仮面を剥ぎ取ることが含まれます。この地でマイノリティの権利を擁護し、彼らの正義・平和・生命のために働くことは、神さまの宣教の真の弟子道を実現することです。

教会の希望は、約束された神さまの統治の成就に基づいています。それは、神さまと人類とすべての創造の世界の間で関係を正しく回復することです。これらのビジョンは、終末論的な実在について語ることですが、終末の以前、現在わたしたちが神さまの救いの働きに参加するように導きます。神さまの宣教に参加することは、仕えられるためではなく、仕えるために来られ(マルコ10:45)、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ(ルカ1:52)、相互の関係性と依存性の愛を実践したイエスの道に従うことです。したがって、神さまは生命の充満と尊厳性を破壊する勢力に対して戦うことを求めておられます。また、正義と人間の尊厳性、そして生命の価値を守る運動に参加し、率先するすべての人と共におられ、力を与えて下さいます。

神の国の統治の福音は、「正義であり包容的な世界の実現」という約束です。包容性は人類と創造世界の共同体の中で人間と創造の世界が相互に認め、また、それぞれの神聖な価値を相互が尊重し、維持させる為の正義の関係を目指します。それはまた、一人一人が共同体の生の中に、正しく参加するように促進します。キリストの中で洗礼を受けるということは、神さまの主権の下で共同のアイデンティティを見つけるためにあらゆる障害物を克服することにより、これらの希望の根拠を説明することに、わたしたちの生を献身することを意味します(ガラテヤ3:27-28)。ですから、人間の存在性を損なうあらゆる差別も神さまの観点からは容認されません。

イエスは、「後にいる者は先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20:16)と約束しました。教会が社会の中で疎外された人々に徹底的に好意を施しながら連帯するということは、教会が神さまの統治の価値を具現することに献身していることを示していることです(イザヤ58:6)。教会が自己中心主義を生の方法として選ぶことを拒否して、神さまの統治が人間の実存に染み込む空間を確保することです。教会が私的な関係はもちろんのこと、経済的、政治的、社会的制度の中で、物理的、心理的、霊的な暴力を拒否することがこの世界で働く神さまの統治を証言することです。

しかし、現実的に宣教・お金・政治権力は、戦略的なパートナーになっています。わたしたちの神学的、宣教的言語は貧しい人々と連帯する教会の宣教について口先では多くのことを語っていますが、多くの場合、教会の宣教は本物のお金持ちとご飯を食べています。そして教権を維持するための財政確保のためにロビー活動をしながら権力の中心部に留まることに多くの関心を持っています。こうした事実は、既得権と権力を持っている人々に福音が何を意味するのかを省察するように特別なチャレンジを与えます。

教会は、イエス・キリストの中に啓示された世のための神さまの聖であり、生命を救う計画を実現するために召された共同体です。これは、共同体を破壊させる価値や習慣、制度、構造、罪性を拒否することを意味します。キリスト者は、あらゆる形態の差別の中にいる個人と共同体の罪性から立ち帰り、悔い改め、不正義な構造を変革するように召されました。これらの召命により教会に対して確実な期待が生じるようになります。したがって、すべての宣教活動は、すべての人間の存在が神さまの姿と聖なる価値を回復し、維持し守ることです(イザヤ58章参照)。


「残された者」たちの使命

「残された者(Remnants)」の思想は、旧約時代のバビロニア捕囚時代に発展した神学です。イスラエルの歴史は、出エジプトから始まり、ヤハーウェの神さまは脱出したヘブライの奴隷たちと荒野においての契約を通して、彼らを解放された神の民として救いの働きの同伴者とされました。しかし、契約共同体は神さまへの不従順を繰り返しながら南ユダと北イスラエルに分断されました。エゼキエルは、分断された南北が罪を悔い改めるならば、神さまは再び統一させて下さると宣言しました。しかし、不正義と腐敗、そして絶え間ない権力闘争のために分断された南北は外勢により占領され、民は再び奴隷の身分に転落しました。

このような状況の中で、イザヤはバビロニアの捕虜たちの中から、主に対して忠実な信仰を捨てず守って来た「残された者」を思い出します。世界中の木々が「切られた」ように、この世に希望が見えなくても神さまの働きの中に希望の「切り株」を残して下さり、この「残された者」が、まさに主が彼らを通して働くことを願う「聖なる種子」だと宣言します。イザヤは、この「残された者」、つまり受難の僕たちが主なる神の使命(mission)、すなわち「主の恵みの年」(ヨベルの年)を宣言するためにバビロニア捕囚から逃れ、必ずエルサレムに戻って来るだろうと預言します。帰って来た者たちは​​、これ以上世俗的な力と権力に頼らないだろうし、「イスラエルの聖なる方である主 」を「真実に頼るであろう」と宣言しました。したがって、歴史の切り株としてバビロニア捕囚から「帰って来た者たち」の使命(mission)は、 「ヤハーウェ信仰の復興」と「社会改革を通した平等な共同体の樹立」だったと要約することができます。これは、ヨベルの年の思想の実現という「残された者」共同体の歴史的理想と連続線上にあります。

わたしは、宗教改革500周年を迎え、在日大韓基督教会の宣教使命を眺望する聖書の根拠として旧約聖書の「残された者」を提示したいと思います。在日大韓基督教会の信徒たちは、旧約聖書の「残された者」のように、様々な苦難に耐えて、激動の現代史を生きて来ました。しかし、バビロニアの「残された者の共同体」が「ヨベルの年の新しい世界」に対する希望を抱き発展させることによってヤハーウェ信仰を失わなかったように、受難の中で、この地の十字架を背負って一粒の麦のように犠牲して来られた皆さんを通して、日本に真の福音が宣言され、神の国の統治が根付く驚くべき神の働きが成し遂げられるでしょう。

「残された者」は、祖国に帰れることができず、後ろに捨てられた共同体ではありません。彼らは神さまから選ばれた弟子たちとしてこの地に真の教会の樹立と民族の和解、日本の宣教と伝道のために「召された共同体」なのです。したがって、わたしたちはこの地のマイノリティではなく、選ばれた正義と平和と生命宣教のための使徒たちです。その選ばれた使徒たちとして、皆さんに変革的な弟子道の道を歩んで行く預言者としての使命が与えられています。

ご傾聴、ありがとうございます。


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