<2015年 感謝節説教>
「あふれるばかりに感謝しなさい」
「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」(コロサイ信徒への手紙2:7)
感謝節を迎える時期になりました。過ごしてきた日々を振り返りながら、この間私どもが主なる神から受けた多くの恵みを思い起こして、素朴な感謝を主に返したいと思います。
コロサイ書は、全体で4章しかない短いパウロの名による手紙ですが、そこには何度も「感謝」という言葉が出てきています。のみならず、聖書全体に感謝という言葉が繰り返し出てきているのはご存知のとおりです。時にしつこいくらい聖書が、読む人たちに対して「感謝」ということを喚起しているのは、それほど人間は感謝の思いを忘れやすいということなのでしょう。
ルカによる福音書17章に、こんなお話があります。イエスさまがある村を通ったときのことです。そこで10人の重い皮膚病を患っている人がイエスさまを出迎えて、「どうかわたしたちを憐れんでください」、つまり「この病気を治してください」と頼みます。イエスさまは彼らに対して、「祭司のところに行くように」とだけ言って送り出すと、彼ら全員は祭司のところに行く途中でその病が癒されました。するとその中の一人だけは、大きな声で神を讃美しながら、イエスさまのところに帰ってきて、感謝の意を表したというのです。それを見たイエス様はこう言います。「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに神を讃美するために戻ってきた者はいないのか」と。
想像ですが、イエスさまはここで「恵みを受けた人間たちがあまりにも感謝を知らない」、あるいは「いとも簡単にそれを忘れてしまう」、その現実に情けない思いを持たれたのではないでしょうか。そしてそれは他ならぬ私たちの姿でもあると考えます。そんな私たちだからこそ、今日のコロサイ書も「あなたがたはあふれるばかりに感謝しなさい」と強く勧めているのでしょう。
『地球がもし100cmの球だったら』(多分だいぶ前に出された『もし地球が100人の村だったら』の姉妹版です。こちらも読んで勉強になりました。) というタイトルの子ども向けに書かれた本があります。地球を、ぎゅーっと小さく縮めて直径100センチの玉として考えてみると、、、ということなのですが、そうすると地球を取り巻く空気の層(成層圏やオゾン層は別)は約1ミリほどのしかないうす~い膜、海の水はビール瓶1本ぐらいの量となり、氷河以外で飲める水として利用できるのは5cc、つまり小さなティースプーン1杯弱、などなど興味深いデータが紹介されています。ちなみに人間の大きさは平均で0.1ミクロンくらいだそうです。そんなふうに考えると私たちの生活する地球は、豊かそうで実はそうでもないようです。
出エジプト時の「マナ」のように、万物を作られた神さまは、この地球に、そこで生きるものたちにとって、必要なものを必要な分だけ与えてくださっていると考えたほうが良さそうですね。そのことをわきまえない、つまり感謝を忘れてしまうとき、必要は欲望へと変わり、神さまが整えてくださった被造物の美しいバランスは崩れてしまう。現に感謝を忘れた人間たちによる環境破壊等はもはや危機的です。
創世記の天地創造のところを読むと、主なる神はご自身の喜びと栄光のために必要な被造物を造られました。そしてすべての命はその恵みの中で祝されて生きることが許されています。しかしそれは、人間が神の御心に従って生きるという霊的な生活形態の一つである「与えられている恵みへの感謝」を忘れないということが重要な約束事です。
「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」
私たちキリスト者は、失ってから恵みの大切さを知る愚かさではなく、大切なものが失われないように神さまの恵みを覚えて、感謝の信仰生活へと召し出されている者たちです。